見城さんのこと 町の小さなレストランが
幻冬舎プレゼンツ『無謀漫遊記、助さん格さんの俺たちに明日はない』
新宿公演までの小休止。
見城さんとの馴れ初めとか、コレで5回目となる幻冬舎プレゼンツ公演が、ココに至る経緯などは、今まで何度も書いて来たので、気になる方はアーカイブを覗いて頂きたい。
多大なご期待とご支援に背かぬよう、前4回の公演の成果を凌駕すべく、全身全霊で紀伊國屋ホール公演に向かうのみである。
ところで
「君たちは見城徹から金など貰って、恥ずかしくないのか」というメッセージが、秘密裏に私の元に届いた。
詳細は省くが、要するに、私が金欲しさに見城さんにすり寄ってるように見えているらしい。
演劇人なら、権力者に尻尾振るんじゃねえ、という趣旨らしい。
見城さんって派手な人だからね。成功者だし、お金持ちだし。でも権力者というのとは違うだろう。出版社の社長さんだ。
その社長さんが我々の芝居を気に入って下さって、限りなくメセナ(文化支援)に近いカタチの、自社広告の一環として冠公演をプロデュースして下さっているのである。
だからこそ、無謀ナイトと言う学生の無料招待公演(紀伊國屋ホール一回分まるっと)なども実現出来ているのである。今回で5回目。延べ2000人以上に無料で見せ続けてきた計算である。
何を恥ずかしがれ、と言うのだろうね。
昨今は演劇活動にも公的助成がつくことが多くて、我々も大変助かっているのだが、ソレを採るために最も大切な演劇の面白さの追求じゃなく、助成金審査に通りやすい企画とか、審査員受けする企画書とかを作成することに血道をあげたりすることの方が、よっぽど卑しい行為だと思うんだがね。
ちなみに、文化庁や文化振興基金の助成に、学生に無料で見せたいので、支援してくれなんて書いても、きっと受け入れてくれないと思う。
もっともそういう非難の気持ちが、まったく分からんじゃないのだ、私も。前回も書いた通り、元は学生運動にも憧れた青二才なんだから。
私の青春期はちょうど、アングラが廃れて、バブル文化が花開いてゆく、ハザマの時代だが、まだ演劇はあくまでも反権力であり、打倒資本主義であり、社会変革の精神的支柱でなくてはならぬものだった。
某アングラ劇団は、紀伊國屋ホールさえ、資本主義的なブルジョアの牙城だとして、本気でヘルメットにゲバ棒を奮って、劇場をぶち壊そうとして乱入などしたのである。コレ、実話だからな。
その文脈から言えば、メジャー出版社幻冬舎と付き合う扉座もブルジョアに毒された愚かな飼い犬ととらえられても不思議ではない。
今の若者には何のことか、さっぱり分からんだろうな、このくだり。実際、そういう活動してたアングラ劇団の人たちも今は平気で帝国劇場に立ってたりするし。
たださ、いま届けられたそういう非難は、まったくそういう未熟だけど必死な精神を継承したものではなく、単なる嫉妬ややっかみだろうから、こういう風に論じることも虚しいな。
たとえば百田尚樹の思想が気に入らないからと言って、その本を出して儲けているのが幻冬舎だとして、しかし渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』も幻冬舎が出してるんだし。見城徹社長と癒着することを、思想的なものや、イデオロギー的文脈で非難しようと言うのは、あまりに薄っぺらいことだよな。ましてや、見城さんが安倍晋三さんと仲が良いらしいから、けしからん、とか。
あのね
安倍首相の地元の山口県の選挙で、脱原発の候補を猛烈に支援して徹底的に闘った、坂本龍一さんの個人事務所の社長は、今も見城さんなんだよ。もっと言えば、見城さんは若き日に左翼運動に没頭されていた過去があるしな。
世の中はそんなに単純で薄っぺらいものじゃない。人と人はもっと複雑に絡み合い、ぶつかり合い、そこから何かを生み出そう、答えを得ようと、老いも若きも男も女も右も左もキリスト教もイスラム教もあがいているのだ。
そんなことよりさ。俺らを非難したい人たちさ。
お前も一回、見城さんから支援受けて、芝居とか作ってみろよ。
描く中身とかには一切、注文はないんだ。実際、今回も上演前にお届けした台本も読んでおられない。
「怖いから読まない」とうちのパンフに理由をはっきり記されている。
ただあるのは、笑わせて泣かせて、魂を揺すぶってくれ。あの頃の『つか』のように。
これだけ。
言っとくが、初めて文化会館を建てた田舎の市長さんの注文じゃないんだぜ。
幻冬舎の本絡みだけで、毎年どれだけの映画やドラマが撮られている?かの角川映画全盛期には、すべてを切り盛りしていたお方だよ。その周りには、どれほどの天才作家、大監督がおられるか。
毎晩、そういう人たちと会食している人の、注文なんだよ。
町の小さなレストランに、魯山人が来て、美味いもの食わして、とだけ言って片隅に座って、オヤジさんの作る料理を待ってるような話だよ。
こっちが怖いわ!
しかし、そんな希代の目利きが、
大丈夫か?今度の料理は美味いのか?
と本気でドキドキと待っておられるのである。
まあ、こんな小さな店だから不味くてもしょうがない、なんてことは一切お考えにならない。
俺が美味いと信じた以上、期待した以上、もし美味くなかったら、本気で絶望するからな!嘆き悲しみ、死を思うからな。
見城さんの座右の銘のひとつが『絶望しきって死ぬために』なんだ。
見城さんは小さな町のレストラン、扉座に対しても妥協なしで、絶望の覚悟まで決めて臨まれておられる。
「そんなにご不安なら、先に少し味見してご意見をお聞かせ下さい」
「いやいや、怖いから、味見なんかしない。美味くできてから食べる」
分かりました。こちらも切腹の覚悟で臨ませて頂きます、と言うしかない。小さな町の人々に愛されて40年続けて来た店のオヤジ、切腹の作法も知らぬのに……
そんなプレッシャーの中で闘って見ろよ、お前らも。
金貰って気楽なもんだな、なんて話じゃねえんだよ。
稽古に入ると、仲間と一緒の闘いになるから、まだしも心強いけど。
ホン書いてる間は、ずっと後悔してるんだぜ。
こんなこと約束しなきゃよかった。
お金返して謝って来ようか、と何度も思うんだぜ。
しかしまあ、そんな私の心の内の恐慌が世間にはまったく伝わらず、大社長に適当に尻尾振って、うまく立ち回れているように見えているのも悪くはないな、とも思うんだ。
恥ずかしいと、思わないのか!とか叱られて。
スミマセン、ヘヘ……とか。
俺らが悲愴に見えてたら、芝居なんかつまらなくなっちゃうもんな。
卑屈に見えてもいけないね。
テキトーに偉い人たち、たぶらかしてるように見えるぐらいじゃなきゃ、イカン。
所詮、河原乞食なんだから。
しかし実際ね。すっごーく大変なんだけど。
このヒリヒリ感が癖になって来ている部分もあるんだ。
単なる楽しいじゃない。
恋のように、楽しくて苦しい、たのくるしい 感覚。
一度知ると、なかなか離れられなくなる。そして深みにはまってゆく。
いっそ法的に規制して欲しいぐらい。
小さな町の食堂のオヤジ、何とか危機を乗り越えて、魯山人様を見送って。
「オイ、魯山人が、美味かった」と言ったよ。
魯山人に給仕の作法がなってないと何度か叱られた、ウェイトレスは心身疲れ果て、ぐったりしている。
こんなこと二度はなくていい。これを最初で最後の良い思い出にしよう……
小さな店の誰もがそう思って安堵する時、ひとりオヤジの胸の中に、新たな火が点いたりするのである。
次は魯山人にアレを出そう。コレも食わせよう、と……
創ってゆく、生み出してゆくって、そういうことなんだ。
そしてそんな風にクリエイターの心に火を点けて、本人が自分でも驚くようなスゴイ仕事をさせてくれるのが、名プロデューサーなんだよ。
とってもお世話になっているパトロンだけど。それだけじゃない。
見城さんのお陰で、私は劇作家として、演出家として、自分でも忘れていた私の中にある力を激しく呼び起こされているのだ。
そして私なりに、絶望の覚悟を決めて、この仕事に打ち込んでいる。
そんな作品を、11月4日から11日まで、新宿紀伊國屋ホールで上演します。
平日の夜にはまだお席があります。
いろんな意見、メッセージを届けて下さる皆さん、ありがとう。
「恥ずかしくないのか!」という言葉にも、深い導きがあると思っています。
恥ずかしくない、証を立てます。
これからも、どうぞ宜しく!