扉座

 つかこうへいの常套句「キマル!」「泣ける!」「燃える!」は、そのまま歌舞伎の基本である。歌舞伎はいかに「かっこよく見得をして」「クドキで泣かせて」「ケレンで湧かす」かが勝負だ。つか作品に夢中になった当時、つかさんが弁当付きの芝居なんかに負けちゃいられません!と語っていたので、弁当付き代表選手である歌舞伎とは相容れないものだと思い込んでいたけれど、実はつかこうへいほど演劇の伝統に即して王道を貫いた現代劇の作家はいなかったと今は思う。
  40年前、高校生の時に、つかこうへいの洗礼を受けて演劇の虜となり、小劇団を旗揚げした一方で、たまたま歌舞伎界との縁を得て学ばせて貰い、気付いたことである。
  歌舞伎は折々に権力者に弾圧されつつも、民衆を味方につけて生き延び、のみならず世界的に類を見ない成果を上げた。徹底したお客さん目線で、分かりやすく刺激的に作り続けながら、大衆娯楽を芸術と呼ばれるものに昇華させた。
  その有様は、つかこうへいの創造活動そのものである。我が敬愛するつかこうへいもまた誰よりも民衆を熱狂させたチャンピオンだった。
  新たな表現とか現代性とかいう怪しい解説に頼りつつ、俳優が一滴の涙はおろか、汗さえ流さず「ハズシ」「わからず」「冷める」舞台がもてはやされる20年があった。その流れの中で、過剰に叫び続け、汗と涙にまみれるつかこうへいも古びたものとして扱われることもあったと思う。
  だが、真に古びてゆくものは邪道、覇道のものである。王道は必ず時を超える。
  この『郵便屋さんちょっと』と向き合って、しみじみそう思った。そもそも手紙、ラブレターというものが時代遅れのものである。
  お客さんの手紙を勝手に開ける郵便局があって「こんな拙いラブレターでは、先方の心に届かないから書き直せ」とお節介を焼くのが、大切なモチーフなのだが、ラブレターという道具立てにこだわれば、もはや成立しない話である。だが万事デジタル化し、記号のやり取りが人とつながることとなってしまった今の世界で、より深く熱く人とつながるために焼かれるお節介というものを、つか的な絶叫と汗と涙で描く時、その思いは冷淡なデジタル的世界を破壊し、人と出会い別れることが、どれほど尊い人間的な営みであることかを思い出させ、神話のように我々の心を揺さぶってくるのである。
  それは古今東西様々に趣向を凝らして描かれ続けて来たテーマだ。しかし時を超えて繰り返し描かれるべきことあり、その仕事を引き継いで行くことは演劇人の使命である。
  『つか版・忠臣蔵』を観て下さった、幻冬舎の見城さんが「こういう熱のある芝居をもう一度流行らせよう。若い人たちに見せよう。その支援をする」と仰って熱狂的サポートをして下さるようになって4公演目となる。それは「あの頃に帰れ!」という命ではなく「王道を往き、演劇の力を蘇らせろ!」という檄だ。
  東京は聖地・紀伊國屋ホール、地元厚木は厚木市文化会館大ホールでの初公演となる。再演だけど、当然のこと、熱狂的書き直しで再配達する!

横内謙介