歓喜と、オリンピック・ボランティア制服。

 11月からスタートした『歓喜の歌』が、昨日、横浜の演劇鑑賞会公演で終わった。

 第九合唱隊=歓喜団は、東北からの参戦もあって、総勢126名。
 舞台に隙間なく、歓喜団の並ぶ光景は壮観だった。
 そして圧倒的な歌声。まさに歓喜!

 この模様は、Facebookとかに写真入りでたくさん出てるから、壮観だった、とだけ言っておく。
 しばし、この余韻に浸っていたいけど、宿題をサボったツケが回ってきている。

 東北ツアーの間も密かにとりかかってはいて、
 帰ってきたら、出来上がってる、みたいな楽観的計画もあったのだけど、まったくそんなことはなく、 ここからの勝負になった。
 ああ……
 夏休み、8月29日ぐらいの気分……

 作曲の為に待ち構える深沢桂子先生に会うたびに、すんません、お待ちくだされと謝る日々。
 やりますやります、と言うだけは言う。

 さあ、こっからこっから、切り替えてくよ、切り替えてくよ。

 たった一人のチームで、自分に声をかける。

 今まで、ぐわあーーーと人がたくさんいた中から、突然、全きひとりの世界にこもる。
 この振幅に、身も心も適応するのが、たいへんでござる。

 そんななか、ふと思った。
 
 2020年東京オリンピックのボランティアの制服デザインが、とっても不評で、小池知事がやり直すとか言ってるらしいけど

 そういわれると、何か、欲しくなってくるのは、少し病み始めた私だけか。

 あの青色と赤色が、クドク入り混じったブレザーみたいな感じのやつね。
 (昔 ナカノヒロミチ とかで、あんなの普通にあった気がするんだけどな)
 
 確かに、はじめ見た時は、えっと思い、私も苦笑な感じだったけど
 みんながダサいダサい、言い出いして、こっちも勢いづいて悪口とか言ってるうちに、逆に何かが染み込んできて

 別にこれ、反骨精神とか天邪鬼とか、いうことでもなくて、

 妙な愛着がわいてきて、あれ着ると、なにか新しい世界が見えるんじゃないかと思えて来た。
 何よりも、時代を取り込む感じは漂いそうだ。

 あれを着たバンドって有りだもんな。
 あれ着こなしたら、今の時代を不思議に歌えそうな気がしない?

 だって考えて!
 草間彌生のデザイン、本当にみんな、最初から好きだった?
 
 そもそも55歳の私が、阪急メンズとかでせっせと買ってる、変な柄のトレーナーとかも、興味のない人にとっては、

 なにこれ、おかしくねえ?

 な感じだろうし。
 ギリギリ、それなりのブランドだったりするから、こっちもまだ踏ん張れてるけど。
 真っとうな同窓生とかに会って、真面目な姿、服装を見た時とか、
 時々、おれ大丈夫か、
 どう見えてるんだろう?と、我ながら心配にもなる。

 しかしファッションとはそういうものだ。

 そして真のデザインは、流行を作るものだ。
 皆がいいと思うのは、すでに流行なんだから。

 それじゃこれから作る意味がない。

 たとえぱ東京オリンピックの選手団の制服デザインとか、
 本気でやるなら、川久保玲さんとか、山本耀司さんとか、そこにつながる鋭い若手をしっかり口説いてお願いするべきだと私は思っている。
 新しい価値観を、きっちりと世界に提示してくれる本物のクリエーターね。

 男の子がレース付きの花柄シャツを着る、
 古い価値観からしたら、変態として捉えられたものが
 そういう人たちの感性でまとめられた時、
 男たちが武器、兵器を捨てるという、時代へのメッセージになる。
 
 美しく去勢されることが、世界的な流行りになる。

 それを素敵と思って男たちが装い、女たちが可愛いと言って、微笑む。
 それが世界の変革に関わることになる。
 大げさに言えば、そういうことだもの。

 そういう天才たちは、たとえばオリンピックに反対の人とか、興味のない人にまで届く、メッセージをデザインで提示してくれると思う。
 批判や皮肉も込めて、我々がこの時代の、大イベントにどう臨むべきか、新しいヒントを与えてくれると思う。
 私たち、凡人には、まだ気づけない、価値を提示してくれる人に頼もう。

 まだ気付いてないんだから、その出会いはきっと、違和感だらけなんだろうけど。
 最初からしっくりくるのは、ユニクロでいいんだし。
 それじゃ、レガシーにならんぜ。(いっそユニクロで、東京にレガシー一切なし!みたいなコンセプトも、きっちり振り切るなら面白いとは思うけど)

 レガシーとは、未来の価値なんだから。

 そういう意味で、あの制服の持っていた違和感は、もはやボランティアの制服を超えた感が、私にはする。

 一種、レガシーの匂いさえ漂い始めた。

 まあ、デザインそのものの力というより、そこに生まれたドラマも含めてのことだから、天才的所業とはいいがたいけどな。
 それでもそんな印象的なドラマを生んだのだから、力はあるというべきだ。

 それは政治的にも、哲学的にも装うことが可能であり、
 ひととき、マジョリティー及び権力に、これはダセエ、アリエン!と、きっちりジャッジして切り捨てられたという、
 徹底的にマイノリティーというか、不良生産物なのに

 へたなメジャー作品より、ずっと有名で、インパクトがあるという。

 まさに、価値があるとすれば、未来にしかない、
 究極のファッションになったと思うのである。

 予言しよう。
 あれ、ぜったい欲しがる人、増えてくるよ。
 早く、着こなした者の勝ちだ。





 ほら、まったく仕事に向かってない……
 今、私がとりかかるべきテーマと、これっぽっちも、かすってもない。
 
 おーい、切り替えてくよ!


 
 

 

 

 
  
 

 

 
 
   

  









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