告白  無謀漫遊記 公開前に

 ちょっと難しいことを書くから、そういうのが苦手な劇団員や、お客様方は読まなくてよろしい。『無謀漫遊記』はひたすら楽しい物語です。

 水戸黄門の物語なのに、時代劇なのに、なぜか革命に挫折した元全学連闘士みたいなやつが登場して来る。 シリーズ第二弾『郵便屋さんちょっと』に続いて、有馬が演じる。 俺の中でそういうイメージだから仕方ない、というか、うちの劇団でそういう人たちの言説を一番理解してくれそうなのが自由君だから、彼に託している。

 つかこうへいを思う時、つい、左翼が気になるのである。
 そもそもつか作品で私が好きなのも、『初級革命講座飛龍伝』だし『戦争で死ねなかったお父さんのために』だ。広末涼子さんとかがやったロミジュリみたいな飛龍伝とは全く違う、ガチに革命の芝居だ。七十年代~八十年前半までの飛龍伝に恋のシーンなんか、全然なかった。

 今の私は、左翼ではない。だから基本的にリベラルな姿勢の現代演劇人たちから、少し浮いている。劇作家協会でも、ちょっと居心地が悪い。だって、左翼が嫌いなんで。
でもついつい、そんな左翼を書きたくなる、そこには左翼への歪んだ思いがある。

 高校時代、左翼=アカを信じるのを辞めようと決意した。
 何にも分かってない小僧時代じゃないか、と言われればその通り。でもかなり真剣に、そう決意した。
 奴らはインチキだと。
 
 しかし、そもそもは左翼が嫌いじゃなかった。
 俺は、マセた理屈っぽい青年だったし、周りのカッコ良い兄さん大人たちは、ほぼ左翼的な人たちだったしな。
 アカっぽい先生たちの方が言うことがイチイチ刺激的で面白かった。
 青春はいつも、反権力から始まるんだ。

 神奈川県立厚木高校でも70年代、学生運動の波は起きていたのだと言う。しかし、古い旧制中学からの伝統校で、同窓会系OBが教員のほとんどを占めていた厚高では先生たちが断じてそれを許さず、共産系の外様教員もろともに徹底的に弾圧して制圧したのだそうだ。

 私は文化祭実行委員長をやっていて、その運営の担当が同窓会系の先生たちだったので、よく当時の武勇伝を聞かされていた。
 夜中に侵入してくる運動派の学生たちを待ち構えて、竹刀で打ち付けたみたいな。

 当時、俺たちの認識では、同窓会系は右翼だった。で、その右翼的教師軍が変な伝統も守っていた。だから、『ホテルカリフォルニア 私戯曲厚木高校物語』に描いたような、或いは『リボンの騎士』にも描いたような、暴力的な応援団も平然と存在した。
 当時もすでに強い非難はあったたんだ。軍隊じゃあるまいに!と。
 そんな意見を同窓会派は、徹底的に排除していた。

 だから、そんな同窓会系派と日教組に与する左翼系教師はイチイチ衝突し、その間に、深い溝があったんだな。
 そして同窓会派が、文化祭担当だったから、左翼系はおのずと半文化祭派となっていた。

 よく言われたもんだ。
 文化祭は教師にとっての時間外労働になるから、やる度に職員会議で揉め事となるんで、下校時間とかは順守するように、と。
 しかし、ホテカルという芝居に描いたように、俺たちの文化祭は歴史に残る画期的なイベントになった。そのぐらい真剣に取り組んで、シラケてた進学校の祭りを盛り上げたんだ。
 その情熱に、担当の先生たちもよく付き合ってくれた。
 右翼だから、情には篤いのである。

 だが俺たちが、必死にやればやるほど、左翼、日教組系は面白くなかったんだろうな。帰り時間も遅くなるしな。革命の志も持たずに、くだらぬ祭りに浮かれる馬鹿な教師と生徒たちと、目に映ったのだろうよ。

 後日、先生たちの間で行われたアンケート結果、というのを担当の先生が見せてくれた。ケンスケは作家だし、大人だから、知っておくのも良いだろうと。17歳だったんだけどな。処女作で話題になってたりしたので、冗談交じりに作家とか、呼ばれてた。

 目を疑ったよ。
 「こんな低級なことに教師も生徒も時間を費やして、嘆かわしいばかりです」
 「もっと他にやることがあるだろうに」
 みたいなことが、ダーッと書かれていた。

 俺は基本的に性善説の人間だから、先生は、生徒のことを思うものだと、その頃はまだやんわりと信じていたよ。
 なによりその文化祭は、とっても手ごたえがあったんだ。俺たちのなかでは凄いことをやり遂げた感があった。
 なのに、そんなことを一滴もくみ取ってくれない教師たちがこんなにいたんだ。

 担当の先生はフォローしてくれたよ。
 でもな、これは君たちへの評価と言うよりも、我々の対立の中で生まれる意見なんで、そんなに気にするな、称えてくれてる意見もこんなにあるんだ……

 容赦ない非難を浴びせているのは、演劇部の尖った先輩たちが、友人のように慕っていた、左翼系教師だった。

 単なる政治的対立で、俺たち生徒はとばっちりを受けたと言うのが真相だと思う。
 きっと左翼先生たちも、革命の話なら、夜を徹しても熱く語ってくれたんだろう。実際、尖った先輩たちには、そういう先生たちから酒を奢って貰って文学の話を夜中までした、なんて自慢していた。
 私もそれに憧れていたのだ。
 で、政治信条とか対立とかを超えても、俺らの頑張りにはエールを送ってくれるものだと、どこかで信じていた。
 
 それが、こうも簡単に、低級などと斬り捨てられるとは。
 心の底から悲しくなったな。
 
 その時はそこまでだ。
 「こいつらは許さん、こいつらの言葉に耳は傾けない」と決めたのは、その後いろいろ考えて、どう考えても、こんな大人たちは尊敬できないと確認が出来た時だった。

 小さすぎるんだよ、イデオロギーに取り込まれてしまった人たちは。

 俺は俺たちが一所懸命にやってることに対して、冷ややかな正論を述べてくれる人よりも、一緒に泣いてくれる人が好きだ。


 実は、その文化祭の前夜。校内に不審者が入って、いろんな展示を破壊するという事件があった。犯人は未だ定かじゃないし、明らかに犯罪なので、ホテカルにそんなことは書かなかったけど。
 歴史的に熱く燃えた文化祭をやっかむ奴らは確かにいたんだ。

 俺が一番大事にした、全校生徒からのメッセージボードの部屋には、そのメッセージたちにスプレーがかけられていた。
 それはハガキを全生徒に配って、言葉でも絵でも何かメッセージを書いて提出してくれ。それを全生徒分、ダーッと展示するから、という企画だった。
 当時で、その枚数1600枚。
 ひとつの教室に隙間なく、ダーッと並べた展示は、ちょっと壮観だったよ。
 
 何しろ進学校で、文化祭なんかに情熱傾けるのはムダだと本気で思ってる生徒がたくさんいる学校だった。全生徒参加なんて、実現不可能だったんだ。
 そこを何とかしようと、俺たちの代の委員たちで企画した。
 
 この事件のことは初めて話すことだな……

 それを夜中に忍び込んでスプレー掛けやがって。
 信じがたい酷いことをされたんだ。
 この企画は実現するのに苦労した。
 企画を進めた時に、こんなこと言って抗議する生徒たちが本当にいたんだよ。

 全生徒にメッセージを強制するなんて、全体主義だ。自由のはく奪だ。

 何人かの生徒がそう言って来たんだけどな。それは明らかに、戦後民主主義の思想だろ。俺は白紙でもいいから、と説明したんだよ。で、実際、どうしても皆と同じことをしたくない奴らの部分は白紙になった。

 違う主義主張があるなら、そこにそれを書けばいいじゃないか。
 
 疑うなと言っても、無理だ。犯人は明らかなんだ。
 そしてその後ろに、あるのは、当時の日教組のうすっぺらい思想なんだよ。
 言い方が悪けりゃ、素晴らしい思想のうすっぺらい実践だ。

 そのメッセージ・ルーム以外にも、いくつかの組の展示が破壊されていたりした。
 文化祭の朝、登校して来た子たちが、精魂かけて作り上げた展示の無残な有様を見て、泣き崩れてたよ。

 担当の先生たちも、泣いてくれた。
 頑張って、修復しよう。こんなことに負けるな、と泣きながら励ましてくれた。

 俺は、今もこの先生たちを尊敬している。

 

 今、取り組んでいる『無謀漫遊記』では、昭和を書こうと思った。平成の終わりだからこそなんだけど、平成は実は、どうでもよくて。
 俺にとっての昭和である。

 昭和の戦後史、は良くも悪くも、左と右の闘いがテーマになってて。
 つかこうへいも、その中に確実にいて。
 ただ、つかさんは、自身の出自、差別への思いなどを巧みに取り込んで、
 気持ちよく、右と左をぶっ飛ばして、笑い飛ばしてくれた。

 自由は、君たちの安直なイデオロギーなんかで実現できるもじゃねえ!
 人と人が真剣に愛し合うことでしか、自由も美しい国も生み出せないのだ、と。

 それは俺の青春時代にもっともしっくりとくる思想だった。
 そして今も。

 だから俺は、つかこうへいを 今も敬愛するのである。
 俺にとっての昭和は、つかこうへいである。

 
 
 
 

 



 
 
  

 
 


  


 
 


 
 

 
 

 


 


 
 
 

 
 

 

 

 

 





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