無謀をやらなくて一体何が

 さて、周回遅れは取り戻せてはいないが、三が日も関係なく、PCに向かい続けた結果、かなりアリバイは成立してきた。
 
 あとは中身が伴えば。って、情けないコメントだが。
 まあ、とりあえず離陸したから、こっから上げていこう。

 そんななか、間もなく、幻冬舎プレゼンツ・つか版忠臣蔵の前売りが始まる。

 幻冬舎・見城徹様からの熱いご声援で、
 チケット代は八ヶ月前の初演よりお安くなっています。

 この舞台をとにかく、若い人たちに見せたいんだよ、と見城さんは仰って下さっているのです。

 半分ぐらい、個人的なノスタルジィで、取り組んだ、つかこうへい作品だったのが、こんな風に言って頂けたことが、何より嬉しいではありませんか。

 過去じゃなく、未来があるって。

 心強い後押しです。
 出来れば、若い人とか、連れてきて下さると嬉しいです。学生料金は更にお安くなっています。

 細かいことは、また宣伝しますが、とりあえず、間もなく前売りですよ、ということで。
 
 さてそんななか、アリバイの成立が見えたところで、大阪に行ってきた。
 まあこれも半分は仕事なんだけど。

 松竹座の、おもだか一門の襲名披露を見てきた。
 その稽古の様子が、昨夜ドキュメンタリーでやってたんだよな。
 残念ながら、私は大阪からの帰りが間に合わず、見落としているんだが。

 今のエンオーを隠さず見せることにしたみたいね。

 そのありのままの姿に、ショックを受けた人も多いとは思うけど、
 
 一昨日、たまたま宿泊が同じとこだったので、お話しする時間が出来て、
 久しぶりに、芝居のことなどお話しした。

 例によって、扉座の現代劇でやれば面白いことも教えて下さったり、
 昨年、出された自画像の画集を下さって、解説して下さったり、
 何より、これからの創造について、その意欲と希望を語られていた。

 なんとか実現したいなあと思う。
 私のチカラなんか微力で、そこがとても情けないんだが

 ダンナのキモチは今、大きくクリエイトに向かっている。
 そもそも、病気で倒れてから、リハビリ半分で画を描き出して、それが画集になっているのである。

 モノを作っていないと、いられぬ人なのである。
 
 そして我々もまた、モノを創っている、おもだかやを見たい。
 見たこともない世界を見せてくれる、おもだかやを。

 今月は、中車さんが、五右衛門をやっておられる。
 歌舞伎の中の歌舞伎みたいな役である。
 
 常識的には、駆け出しがやる役でもないし、出来るものでもないだろう。
 客席もそんな気配で、待ちかまえる。

 でも、そんなことを吹き飛ばして、堂々と大泥棒が現れた。

 エンオーとふたりのセリフが重なる。
 劇場が揺れる、上手いとか下手とかそんなことじゃなくて、創造すること表現することの荒々しいエネルギーが、そこにあふれ出してくる。

 まさに、これはおもだかやの世界だよ。

 遺伝子なんかなくても、きちんと修行、稽古すれば歌舞伎は出来るんです。
 歌舞伎は血なんかで、やるんじゃなくて。もっと純粋な芸なんだ。

 そう言い続けてきたのが、エンオーさんだ。

 そういう意味で、香川照之という当代でもぬきんでた実力の俳優が、五右衛門という役を演じている、というこの姿。
 きちんとプロの仕事である。 

 実は血があるんだから、変な話だけど、
 おもだか理論の実践というか、
 歌舞伎の可能性をしかと見せてくれた、と嬉しくなる。

 この先に、さらなるおもだか帝國があるぞと、思わせてくれる。
 常識を気持ちよく破壊してくれている。
 
 たとえば、これは、八戸でアイスホッケーの選手だったという笑也さんが、歌舞伎の女方をやっているという、その延長線上にあることでもあるんじゃなかろうか。

 笑也さんのその体幹の強さ、身体バランスの良さは、歌舞伎という繊細にして過激な表現にとって、大きな財産であることは、確かなのだ。

 女方は妖精じゃない。
 妖精のように見えることもあるけど、そこに至るには修行という努力と研鑽があったんだ。
 
 歌舞伎みたいな芸のファンは、のめり込みすぎて、歴代の名優と自己同一化してしまい、
 良く言えば厳格な、悪く言えば排他的でスノッブなルールに吸い寄せられがちになる。

 でもそんなヤツらをぶっ飛ばして、進む。
 それが、エンノスケ精神だ。

 勘三郎さんもそういう人だった。

 だから僕らは愛したんだ。 

 分野は違うが、つい先日、サッカーのサイトの関係者が、日本人選手が外国で活躍するのがウザイ、消えて欲しい、みたいなことをツィッターだかんで呟いて、物議をかもした。

 この人、ヨーロッパのひとじゃなくて、日本人の報道関係者なのらしい。

 ヨーロッパサッカーを愛するというか、愛すると思いこむあまり、そこに同胞が入ってこられると、なんか価値が下がるようなキモチになってしまったのだろう。

 でもこれほど愚かで、哀しいことはない。

 カガワやナガトモがどれだけ努力して、かの地で闘っているか、そしてそこで、仲間やファンを獲得しているか。

 それが見えなくなったら、サッカーそのものが見えなくなってると同じだろう。

 君は何を愛してるのか、結局、ヨーロッパサッカーに精通する自分が愛しいだけじゃないか。

 しかし時代が傾くと、かならずそういう傾向は現れる。
 なんか大きな価値観にすがりたいという。

 右傾化もそのひとつ。
 
 それを壊すのは、真にクリエイトする人たちだけだ。出来上がった価値なんかぶち壊して、未来に生まれる価値に期待する、命を託す。

 そういえば
 
 新しく出ていく者が無謀をやらなくて
   一体何が変わるだろうか 

 というのが幻冬舎のモットーだった。

 巨人たちの思想は通じ合っている。
 私はその中に、少しでも近くに、生き続けたいと思う。

 さて、今週から、現実に合流。

 なんか

 さて、ばっかだ。



 
 
 

 

  
 
 
 
 
 
 

 
  

 

 
 
 
 


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