セゾン劇場 閉館

 ひたすら、台本書きの日々。

 そんななか、今日で ル・テアトル銀座 とホテル西洋の閉館というニュース。

 セゾン劇場と言う名で、開業した初年度の3月。
 『きらら浮世伝』という作品を、書きました。
 初めての大仕事。

 当時、新参のセゾンは、とにかく新しい作家で、新しいことやれと、ハッパをかけてた。
 そうしてチョイスされた、新しい作家だった私。
 劇団は善人会議という名で、初めて紀伊國屋ホール公演を成し遂げた頃。

 勘九郎さん時代の、故勘三郎さん主演。
 演出の、河合義隆さんも、すでにあの世で。
 
 そこに出てた、川谷拓三さんも、仮面ライダーの小林昭二さんも鬼籍。

 新しい作家だった私もずいぶん、古株になった。
 そしてその舞台に、劇団特権で、アンサンブルの一人として出演し、河合さんや、先輩俳優たちに、ずっと怒られていた、六角精児は今や、有名人。

 バブルの遺産であろう。
 セゾングループ、全盛期で、劇場は儲からなくていいから、凄いことやれ、アッと言わせろと言われていた。

 だからこそ、私のような実績のない新人も登用された。
 儚いけれど、私には恵み多き時代だった。

 そこで、朝倉摂さんの知遇を得て、
 『きらら浮世伝』とその後、杉田成道さんの演出で上演された『女殺し油地獄』(扉座では 桜地獄として上演)
 の台本が、三世市川猿之助に渡り、

 スーパー歌舞伎に繋がってゆく。
 今、派手演劇方面のプロデュース、演出に忙しいRUPの岡村俊一は、当時、劇場の営業とは名ばかりのチケットもぎりだったものよ。

 しかし、ここで、つかこうへい先生の信を得て、大プロデューサーへの道を歩み始める。

 ここら辺のことは、いつかきっちり書き残しておこう。
 バブルの遺産と人は言うけど、

 不景気で、予算がない予算がないと 誰もが嘆くばかりだった失われた20年よりも、確実に大きな夢が育まれてた事実はあるんだ。
 
 なによりも、若者たちが元気だった。
 輝く未来を信じてたもの。私だって、この先に何でも出来ると、確信してたよ。
 実際に、自信とか、経験とか、人脈も、希望も、たくさんここから貰った。

 銀座のはずれの不思議な劇場。
 たくさんの思い出と、財産をありがとう。

 下のレストランでも、いろんな人と食べ、語り合ったな。高級イタリアンなんだけど劇場の地下だから、演劇人たちだけは、気取らず芝居の話を大声で出来るような雰囲気もあり、
 まあたいてい、そこでの飲み食いは、大御所的なスターが混じってて、
 私たちは一銭も払わずに済んでいて

 それでいて、客席の中でたぶん目立っていて。

 なんだか、演劇がとってもイカスものに思えたものだよ。

 我々の舞台の監修者だった、三木のり平さんが、ここでワイン飲みながら、オリンピック冬季大会の、フランスアルベールビルの、開会式の演出をベタ誉めしてた。
 そんで、

 これからサーカスにもう一度、光が当たるよと言ってた。

 そんな時の、のり平さんはレストランがよく似合ってて、スッゲー、ハイカラだったよ。

 で、それからしばらくしてだ。
 シルクドソレイユ なんてチームの大ブームがやってくるのは。

 あの時、あのレストランの一角は確実に時代の最先端だった、と思う。
 のり平さんも、ずいぶん前に逝っちゃった。
 
 しみじみと、いろんな人たちの面影や、言葉を思い出しつつ……


 今日は夕方から、明治大学のシェイクスピアの特別講義。

  
 


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