模倣と盗作
HKT48公演 を 54歳に間もなくなるこのオッサンがやっていることで、すでに正気は逸していると我ながら思うのだが、
今年は更に、この上に
世界的人気漫画・ワンピース、を歌舞伎でやるという、狂気の沙汰の公演がある。
そして昨日、ついに稽古突入。
もはや船は港を離れ、後戻りできぬ航海へ。
この旅の果てに命があるのか、考えることもゾッとする。
しかし、もう、やるしかないので、生贄となる覚悟でやる。
何の生贄か、分からんが。
ところで昨夜、その美術打合せがあったのだが、舞台美術家の堀尾さんと、変なところで深く意気投合した。
佐野さんは気の毒だ、そら似るよ、デザインなんて。
と。
ちょうど私も、この一連の騒動の中で、
佐野氏の発言の中の、
私は過去に、模倣も盗作もしたことはないです!
という釈明の言葉に引っかかっていたのである。
どんな風にかというと
私は過去に、模倣と盗作だらけだったなあ、と思わずにいられなかったのだ。
ついでに言えば、過去に留まらず、今この時も
模倣と盗作塗れである。
パクリなくして、我が創作はあり得ず!
誰かに細かく調査され、指摘されたら、たぶん作家生命は終わる。
だから、調べないで。
ま、芝居のホンは、尺が長いので、よっぽど、全編とか、シーンを丸丸、コピペしない限り、盗作とは気付かれなし、法律的にも許されてしまうんだけど、
セリフなんてのは、ほぼ、どこかで聞いたことのある言葉だらけだし、ストーリー展開に至っては、
9割9分、どこかで使われているものだ。
どこかの国の神々の話を、タヌキの一家の話にすり替えていたりするだけのことでな。
たまーに、これは完璧なオリジナルだぜ、なんて思うようなことをやっても、知らぬところで、すでにやられていたと分かることも、多いし。
んでついでに言えば、まったく誰もやったことのないことを頑張ってやってみても、たいていの場合、意味不明で、つまならなくなる。
セリフも、人に届かぬし、伝わらない。
つまるところ、模倣と盗作頼みである。
とまあ、どうしたって
似るよ、被るよ、と分かってるのが常識なのが、クリエイトの世界だということだ。
だから、その中でも、世界中のどんなものにも似てないものを作るのには、それなりの適正みたいなのがあって、
これはもう、ピカソだったり、ゴッホだったり、岡本太郎だったりの世界なんだと思うけど、
狂人に近い天才たちの、命を削ったギリギリの仕事の中にしか、オリジナルは生まれないと我々は肝に銘じるべきではないか。
そういう意味で、佐野氏は、フツーのというか、優れた職業的デザイナーだったというだけのことで、選んだ方が甘い、というか。プロたちがそれを知ってて、ある覚悟で選んだと思うしかない。
逆に言えば、横尾忠則とか、草間彌生とかの、狂気と隣り合わせた、振り切った表現に託すガッツが、今の日本には欠けているということだ。
横尾さんなんて、それこそ切り貼り、コピペの世界だったりするんだけど
そこを極めて、途方もない独創を生むという、変態系で。
今、私の仕事部屋には、かつてのスーパー歌舞伎『新三国志Ⅲ』の横尾氏デザインの大ポスターが思い出に、飾ってあって、
毎日、それを眺めつつ、この三国志を超えたいと、せっせと模倣と盗作に励んでいるのであるが
毎日見ても、飽きない、迫力があって
やっぱ、横尾はすげーなと思うのである。
今度の、マークは、俺は画家に頼むべきだと思う。
いるよ、草間や横尾に続く、若い狂人は、きっと。