ライブビュー
『HKT48博多座公演』のライブビューイングというのがあった。
舞台を全国の映画館に生中継するのである。
博多の公演を忘れたわけではないけれど、とりあえず、遠く離れて、別作業に没頭し、無事の知らせを待つばかりの身になっていたこの5日間。
運よく隙間が空いたので、私の地元、池袋の映画館に、その中継を見に行った。
凄い時代になったものである。
今、博多でやっている舞台を、池袋で同時に見られるのである。
しかも、十台じゃ効かないんじゃないかという、たくさんのカメラでの多彩なアングルと、たぶんこの公演を、何度も見てポイントを絞ったと思われるカット割りと、スイッチングである。
何しろ生中継なのだ。とてつもなく難しい仕事のはずだけど、それがガッツリ行われているのである。
稽古場では、演出席は真ん前のど真ん中にあって、かなり近いところで演者の姿を見つめている。
でも、映画館のクローズアップみたいに、鼻の穴のヒクヒクまでつぶさに見えるなんてことはないのである。
特に私は、大きな小屋での公演では、なるべく離れて、俯瞰的にロングで芝居を見て演出するよう心掛けているので、小さな表情はイチイチ気にかけていない。
ほとんどのお客さんに、それは見えないのだから。
しかし恐るべし、ライブビュー。
アップアップの連続である。
目ん玉の小さな動きまで、銀幕に巨大に映し出されてしまう。
ああ、これは芝居のゴマカシがきかないなあ、大変だぞと、いきなり思い知らされる。
こんなに寄られたら、ウソがバレバレになったちゃうよ。
ところが、これが、多分に身贔屓もあるかもだけど
出演者の皆が、どんなシーンでも良い顔してた。
彼女たちはライブビューというものをよく知ってるから、更に気合が入っていたのかもだけど。
細かな表情まで、しつかりと演技できていた。
もちろんね、
拙さもきちんとクローズアップになってはいるのだけれど
それもふざけて下手なのではなく、かなり真剣に取り組んでいることが、きちんと伝わってきて、スカスカ感が一個もなかったのは、とても嬉しかった。
むろん彼女たちの天性の感性が素晴らしい、ということも大いにあろう。厳しい競争を経て選ばれてスポットを浴びている人たちである。
でも、三月の稽古から、四月の明治座公演を経て、今ここに至った進化がとても大きいことは、書き記しておきたい。
平均年齢二十歳以下の子たちなわけで、歌とダンスはともかく、演技の経験はゼロだった子も多数いるわけで、
それがここまでやれるようになったというのは、
予想を超えての成長である。
やっぱり、役者を育てるのは劇場であり、観客だなあと、今日、しみじみ思った。
ひたすら稽古しても、稽古場だけでは、こんなに劇的な進化は起こらない。
生身のカラダを晒して、舞台のイタに立ち、身銭を切って見に来たお客に見て貰うこと。そういうお客さんたちに、少しでも楽しんで帰って貰おうと、必死になること。
それ以上の役者の育成法はたぶんない。
そんな機会を持った彼女たちは幸福であり、そこに立ち会えて、多少なりとも影響を与えられた我々も、また幸せだったと思う。
扉座メンバーも、何度もアップにしてもらってて、その度に充実感があふれていて、皆にも良い時間なんだなあと感じたよ。
正直舞台を映像の中継で見るって、どうなんだと、半信半疑で行ったのだけど
映像ならではの発見がいろいろあって、とても有意義であった。
でも幕切れで拍手したいのに、そこがもどかしく
ああ、またあの空間を体感したいと、懐かしく思ったのであった。
ちなみに池袋には、きちんとペンライトを振り、掛け声をかけてくれている、勇者が数名おりました。
ありがたいことであります。
そんで途中、トークコーナーで、池袋で横内さんが見てるはずと、言われ
思わずポップコーンをこぼした。
そこは気楽な映画館モードであった。
だって幕間になって、
休憩中の博多座の客席風景を、二十分じっと大きなスクリーンで見続けていると言うのも、かなりケッタイなことで、それならこちらも売店モードだな、こっちはポップコーンだな、と思ったんだよぉ。
そろそろ折り返しか。
更なる進化を祈るばかり。