実は里帰り

 高円寺 での公演が始まる。

 わたし、全国のあちこちで劇団公演をするために、いろんなところを出身地のように語っているのである。

 北九州は、そもそも母のふるさとで、その上、たまたま父の転勤で小4から、中1の途中まで、暮らしてもいた。
 だから、故郷と呼んで、

 厚木の前に、すでに北九州市の文化大使にもなっている。

 
 んで、同じく父の転勤で、大阪の池田市にいたこともあり、関西にも縁があると、喧伝してきた。
 これも嘘じゃない。

 その父は、本籍が青森で、秋田で育った人である。
 ついでに私の本籍も、今も、そのまま青森のとなっているので、青森とか秋田のことも、住んだこともないのに、深く縁があると、言い張って、公演などで訪れると、
 故郷に帰って参りました、と挨拶している。

 実は、今年、秋田の劇団
 わらび座 の仕事をしたのも、何か、縁を感じたからでもあった。

 んで、高校の3年間、通っただけの 厚木 をホームタウンとしているのは、もうご存じの通り。
 でも、そこで芝居を始めていて、岡森、六角と出会っているから、今につながる、ルーツの場所であることに間違いはない。

 しかし、
 極めて、個人史的な観点からいって、1961年9月、本当に生まれたのは、東京女子医大病院であり、
 その時、両親が住んでいたのは、

 高円寺であったのである。

 高円寺の、三畳一間のアパートで、共にふるさとから飛び出してきた、若きサラリーマンの父と、洋裁店で働く 母が、新婚家庭を営んでいたというのである。
 たぶん昭和の三十年はじめあたり オールウェイズ の頃のことだろう。

 幼稚園に通うかどうかというところまで、高円寺にいて、その後、大阪に引っ越したのである。

 オリンピックの時に東京にいて
 万博の時に、大阪にいた 高度成長期、ど真ん中一家なのだ。

 そんなわけで、私の最も幼い頃の写真は、すべて高円寺の路地裏の風景になっている。
 そこに、今の私より、遙かに若い、父と母に、抱かれていたりする。

 二人には、それは 青春の思い出なのだと推察する。
 
 先日
 今は劇団の事務員となった 父が、高円寺の稽古場に差し入れなど持って来ていた。
 
 その時、高円寺に来ると、いろいろ懐かしいんだ、と言っていた。

 私には記憶がなく、イマイチ、ピンと来ないけど
 それでも、物心付いた頃に、両親から、東京・高円寺 のことなど、よく聞かされていたので、
 知らないのに、どこか馴染みのある、町ではあった。

 今のところ、
 駅と、座・高円寺 の往復ぐらいしかしていないが、今度、そのうち、辺りをぶらついてみようと思う。

 唐十郎の芝居みたいに
 
 裏路地の角から、若き日の、横内一家が、フラリと現れたりしてくれないだろうか。
 

 


関連記事

この記事のハッシュタグに関連する記事が見つかりませんでした。

アーカイブ