レオニー
ノグチイサムというアーチストがいて、彫刻家なんだけど、
家具などもデザインしていて前の引っ越しの時、テーブルを買いかけた。
予算オーバーで、思い止まったが、ステキなものです。
そのイサムさんの、お母さんのことが、映画になっていて
レオニー
という。つい先日封切られました。
縁あってちょっと前に試写を観たのです。
たまたま、その少し前にたぶん、今年の売り上げで上位に入るだろう、日本の恋愛映画を観ていたのだな。
敢えて名は秘すが、
うちの劇団員が出ているはずだったので。
もっとも、その劇団員の姿は発見できなかったのであるが。
んで、その映画がだな、大評判、泣けます純愛、みたいなことが言われていたのだが、私には、どこが純愛で、何故泣けるのか、さっぱり分からなかった。
若い頃にはキラキラと輝いていた、初恋のカップルが
どんどんつまらない大人になっていって、
なぜか最後にはよりを戻す、
というストーリーしか私には読み取れなかった。
そのストーリーに問題はない。
色褪せて行く若者をしっかり描くのも映画なんだから。
昔の青春ドラマはほぼそうだしな。
色褪せていく、切なくも無惨な青春だ。
しかし、たぶんこの映画はそういう皮肉な話としてウケているのではなく、アイドルの恋愛物として、
感動的な恋の復活物語
として評判になっていたはずだ。
それを思うと、ちょっとゲンナリした。
若者達に、こんな人達の生き様に感動して欲しくない、と切に思ったのである。
この話の登場人物たちには同情や、心配が相応である。
映画の出来がどうこうより、私はもっとしっかり生きてる人間を観たいと思ったのだな。
恋なんか一つ一つ終わっていく。
その時、永遠を願ったり感じたりするのは、真実でも、ちゃんと生きていれば、必ず次の真実にぶちあたり、甘い恋は終わるんだ。
問題はそこからでさ。
ひとつの恋は終わっても、人と人のつながりは、続き、
そこから人はまた、自分の人生を生きてゆかなくちゃイカンのだよ。
もちろん、恋人の再会はあるし、一度は終わった恋の蘇りもある。
でもさ、僅かでも時が流れていて、その時を生きていたら、人間の中で、何かが変わっていかなくちゃおかしくないか?
成長でアレ、堕落でアレ、人は変わって行くはずだろう。
再会した時は、お互い変わっていて、
別のモノが見えていたり、聞こえていたりするのだよ。
もうあの時みたいに、同じモノを見て、同じように感じることは出来ない。
でも、そこにこそ時を重ねて生きていく価値がある。
それこそ生きると言うことだ、とワシは思っている。
だからこそ、再会は尊いドラマとなり得るんじゃないのか?
んでな、
このレオニーの主人公、イサムの母は、ニューヨークで日本人の詩人と知り合い結婚して、イサムを生むが、奔放な詩人の生き様や、戦争とかに苦しめられる。
そこでは美しかった恋なんか、簡単に吹き飛んでいくのだよ。
だが、彼女は懸命に生きるんだね。次々と遅い来る困難に立ち向かい、変わっていく環境に順応し、またある時は戦い続けて。
消えた恋なんか、追わないよ。
そんな過去に逃げ込まず、今、彼女の目の前にある現実と常に立ち向かってゆく。
そしてそこで新たな出会いをして、絆を結んでゆく。
そこら辺が、妥協なく描かれている。
主演のイギリス人の女優さんも素晴らしいし。
私は、なんかホッとして、その後で泣いたね。
ホッとしたのは、こういう人間を描いてくれる人がまだいるってこと。中年過ぎて、映画を作り始めたという日本人の女性監督だ。
松井久子さんという、凄い女性。
劇中、レオニーが、がさつな日本人の女中と最初はぶつかり合うんだけど、ある時、英語で、あなたは親友だ と言う。
女中に英語は通じない。だからシーンも、サラリと通り過ぎる。
ベタにやれば、しっかり泣けるシーンになるのに、安直なことをしない。
そこにあるのは、この監督の、人間の姿を描ききるのだ、
という強靱な意志だ。
ここら辺の感覚、今回、私が
朝右衛門でやろうとしていることにも通じている。
レオニーは、この脚本の執筆中に観たのだけど、大いに刺激を受けた。
扉座公演と同じく、地味で、素通りしがちだけど
こういう仕事に正しく光が当てられなくては、この国はダメになる、思う。
試写を観るまで知らなかったけど、
突然、六角が出てきた。
主演のエミリー・モーティマに、素晴らしい俳優と言われたらしいよ。
あと、山中たかシ弟の、聡クンも良い役で出ています。
思わず六角に、いい仕事してますねえと、メッセージしたのだった。
朝右衛門も、負けませぬ。