朝右衛門のこと
公演を見に来て下さった方々、応援して下さった方々、どうもありがとうございました。
小池先生には、厚木の初日に、これからもやり続けてくれ給えと、お言葉を頂きましたが
その後も多くの方から、大事なレパートリーにして欲しいと言われました。
苦労の甲斐がありました。
今後も大事にしていきます。
その朝右衛門、
実に首斬り哲学者でありました。
死刑廃止論者なのは、原作のままです。むしろ原作の方が、論理的に廃止を訴えています。
私はこれまで、できれば死刑がなくなればいいと思ってはきましたが、
それほど明確な廃止論者ではありませんでした。
被害者の気持ちを思うと、死を以て償うしかない局面も、あるかもと考えることがあります。
かつての光市の事件などのルポを読むと、まったく懺悔していない殺人犯の人権が、大事に守られる状況、というのは、やりきれない思いになります。
ただ、この公演の支度にかかる頃から、腹をくくって、今後は廃止論でいこうと、思いました。
それは、もし私や、私の大切な身内や仲間が、理不尽な殺人にあっても、犯人を死刑にすることを望まない、という覚悟を決めることです。
たとえば
もしその犯人が、殺して愉快だったと言い続けたとしてもです。
それは朝右衛門に義理立てするから、というのではなく
この戯曲を書くために、ストーリーや台詞をどうするか、悩み苦しむなかで、自分の意見、考えが、徐々にまとまっていった結果であります。
そしてそれが単なる理屈じゃなく、自分の気持ちも含まれた、思想みたいなモノに固まっていったというか。
たまたま朝右衛門が言うわけです。
死刑は、人が変わってゆく可能性を閉ざすから、一番重い刑なのだと。
これは別に私の言葉ではなく、死刑をそのまま語ったに過ぎないものですが
思うに私は、今回の芝居で
人間の可能性について、考え続けたのだという気がするのですね。
そして生きるとは、可能性を持つことなんだと、いうおそろしく単純な結論に至るわけです。
人が変わってゆく可能性を閉ざすことは、人間の敗北であろう。
であれば罪人のなかに眠る人間としての可能性に、一縷の望みをつなごうとし続けることこそ、人間が人間である証しだろう、と思うに至ったのです。
だから、無期限の禁固とか、無期懲役が最高形でいいのではないか、と。
それがこの公演を経た、今の私の死刑に対する考えです。
もっとも、その考えだって、私の発明じゃない。
でも、そういうありきたりの考えや言葉が、改めて新鮮なモノとなり、自分の血や肉となる感覚というのは、書くことの大いなる幸福です。そして、それがあるからこの苦行に耐えられるとも言える。
愛とか夢とか、ドラマのキーワードは全部ありきたりじゃないですか。でも、人がそれをドラマにし続けているのは、また歌にし続けているのは、その度に、その実感と新しく出会うことが出来るからなんだな。
僕らは何度もそれらと出会うのです。
で
今回、私にもそういう出会いがあった。
生きるとは、可能性を持ち続けることなんだと。
シンプルだけど、大事に思える言葉を手に入れたと思えた。
井上ひさしも、つかこうへいも とてつもないチカラの持ち主でした。
彼らのお陰で、愛とか夢とか正義とか希望とか、そういう手垢まみれで、もうこれから先、たいして役に立たないんじゃないか、終わったんじゃないか、というような言葉たちが、
新しい命を吹き込まれ、我々の心に響いて来ました。
もちろん、
作品がある限り、それは残るのですが
でもそれが生き続けるかどうか、その可能性を握っているのは、やはり今ここに生きている我々でしかないのだね。
我々がそれとどう付き合っていくかに、委ねられている。
死者にはもう、可能性はないのです。
だからこそ
私たちは、しっかりやらなきゃいけません。
可能性というものにおいては、我々にしかチャンスはないのです。
井上ひさしも、つかこうへいも、寂しいし残念だけど、もう新しい作品は作らないんだ。
愛とか夢とかも、生きている我々が、発見していかなきゃいけないのです。
朝右衛門が 生きよ という場面が良いねと、たくさんの方に言われました。
その短い言葉には
お役目として、家業として、人間の可能性というものを、もっと言えば未来を、奪い続けねばならなかった寂しい男の、屈託や悲しみや、深い祈りが籠もっています。
また、それを、俳優たちが上手く演じてくれたから、お客さんも、それを感じてくれたのだと思います。
芝居を創るモノとして、最高に幸福なことだと思います。
皆さん、どうもありがとう。
そして、これからもよろしく。
