茂山千之丞さん
日曜日、首斬り朝右衛門 の千秋楽。
その朝、千之丞さんの訃報を知る。
八十七才で、つい最近まで、舞台に立っていたのだから、天晴れな生き様であったと思うけど
もうお会いできないのかと思うと、ひたすら残念である。
数年前、横浜演劇鑑賞会の仕事で、千之丞さんと新作狂言を作った。
そのために、何回か、狂言を見せて頂いては、お話を聞かせて貰った。
舞台はひたすら素晴らしく、話はどこまでも愉快だった。
そして当時、すでに八十を超えていたのに、まったく年寄り臭いところがなく、声が大きく明瞭で、思考も明晰にして、斬新なことに、感動したものだ。
実は、午前中に、テレビ番組のために、野村万作さんにインタビューして、
同じ日の午後、千之丞さんと雑誌のための対談をするという
奇跡のような一日を過ごしたことがある。
東西の、生きる文化財と同じ日にお話しさせて頂いたのである。
その午前の部で、東の宝、万作さんは、仰った。
狂言で大切にしていることは
可笑しくよりも、面白く、面白くよりも、美しく
いかにも折り目正しい伝統の継承者たる、万作さんらしい、趣深き言葉であった。
午後の部で、西の宝、千之丞さんにそのことを語ると、
そうですか、と言われて、その後すかさず
それがなんぼのもんじゃい、
と。
可笑しかったら、それでええやないですか、と。
その表情が、思わず千之丞さんの顔に、ツバキを噴き出してしまうほど、可笑しかった。
その後、詳しく伺うと、可笑しければと言っても、ハプニングとか、ダジャレのレベルではなくて、あくまでも狂言の味わいのなかでの話なのだと知るのであるが
まずは、その開き直りは極めて潔く、気持ちのよいものであった。
狂言は、能と違って庶民のものです。そのなかでも茂山家は殿様にも見せるけど、村の祭りの余興でも請われれば、出かけていって、喜んでお見せする。
豆腐のように、長屋のご飯にも、料亭の高級料理にも、どうちらも重宝に使われる
豆腐のような存在であることが理想なのです、と。
伝統芸能の家の人でいながら、左翼にして、アバンギャルド。
その知性溢れる諧謔と、反骨精神は、どこまでも格好良かったナ。
もっとたくさんお会いして、いろいろと聞いておけば良かった、と悔いが残る。
また一人、大切なご縁の方を失った。
ひとつ大切な芝居が終わった夜に、
素晴らしきこの道の、大先輩に
合掌。
