高円寺 と ほっこり

 高円寺生まれ

 なのである。

 秋田出身の父と、北九州小倉出身の母が、東京で一緒になり、私が、4、5歳の時、父が大阪転勤になるまで

 高円寺に住んでいた。
 純情商店街を進んでいった辺りだったという。

 なので私のプロフィールは、東京出身になっている。
 正確に言えば、杉並出身である。

 ほぼ記憶はないので、懐かしがる両親の話でしか知らぬことであるが。

 そんな場所に、座・高円寺が建つということになり、しかもそこに劇作家協会が深く関わるということにもなり
 こうして、せっせと通うようになっている。

 ご縁と言えば、ご縁である。
 いまは劇団制作部になっている、オヤジは、高円寺に来るたびに懐かしがり、ブラ散歩をしている。

 いわゆるひとつの
 ほっこりと なっている。

 ところで
 『ほっこり』だ。
 
 実はこれは項目をひとつ立てて、語るべきであったが

 先日も友人と話していて、議論になった。

 ほっこり て何だよ。

 しみじみ とか ほのぼの なら知ってるが、ほっこり なんて、どこから湧いて来た、どこの言葉だ。
 
 最近、やたら耳にするが、正直どうなんだよ。
 なんか、おもねってないか、日和ってないか。
 本当はもっと言いたいことがあるのに、とりあえず飲み込んで丸く収めようとしてないか。
 でも、それが新しい言葉であるところに、

 内心の微妙感をちょっと込めたりしてんじゃないのか。

 ま、ビミョー ってのもウイルスみたいな新語だったけど、こちらは毒性が明らかなので、私はむしろ好ましかった。

 でも
 ほっこりは あくまでも無害的な、善意的な、優しく寄り添うぜ的な、響きが表面に満載な分、
 なんか、胡散臭く感じるのである。
 だったら、

 しみじみ、ほのぼの、とか言えばいいのに、

 わざわざ、新しく言い換えるところに、小ずるい作為を感じるというか
 ちっちゃな排他性とか、差別感を感じるというか。

 まあ、そんなことを過敏に思うのは、新しい動きに対して、警戒心ぱかり強くなる、オッサンの猜疑心に他ならぬかもしれないが。

 しみじみ、ほのぼの 系の感覚というのは、ずっと昔からあって、全国的に、年寄りとも、齟齬なく共有できたものなんだと思うのね。
 刺激ではないからさ。

 新しい、刺激的な感覚には、そりゃ新しい言葉が必要だ。

 チョー とか、メガとか、最近なら、神 とかさ。

 そしてそれを感じ合える人たちで、ひとつの新たなコミュニティーが出来てゆく。
 他の世代とは、隔たりのある、集まり。

 それがひとつの勢力となり、自分たちだけで通じ合える言葉を持ち、他の世代と争ったり、乖離していったりするんだ。

 そして時代を作ってゆく。
 そうしてみんなやって来た。

 でもな、
 しみじみ、ほのぼの、
 的なモノに、そんな細分化傾向が必要か。
 なぜ差別化するんだ。

 しみじみぐらいは、日本語圏の大勢の皆々で、世代を超えて、共有し続けて、しみじみすりゃいいんじゃないのか。

 たぶん、
 ワシが今、ほっこり に対して感じる違和感は、そういう寂しさなんだろうな。

 なんか一部のOLとかだけで流通してるなら、いいんだけど、妙な拡大をしていってさ。
 ほっこり が分からないヤツは、心に欠陥があるみたいな、無言の圧力まで辺りに漂ったりして。

 こうして改めて言葉にしてみると、
 そこはかとなく、違和感が増してきた。

 ほっこり は嫌いです。

 今決めました。
 私は、この先『ほっこり』という言葉は絶対に使いません。

 
 いや朝から、こんなことしてる場合じゃない。
 高円寺に行って、ゲネやらんと。

 明日から、11日まで公演ですっ。


 
 
 
 
  
 
 
 
 
 


 


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