アイデンティティ

 昨日、こまつ座 の『雪やこんこん』を観て
 今日は わらび座 の『アテルイ』を観た。

 自分は『幕末ガール』の歌詞作り。3月の途中から、松山移住になるので、今、製作大急ぎ中です。

 で、このふたつとも素晴らしい作品であった。
 まあ片方は、井上ひさし先生の名作の上に、高畑淳子さんと、キムラ緑子さんが、ガチで絡む、そのうえに実力者たちが脇を固める、強力なキャストの公演なので、言うまでもないのだけど。
 山田まりや も頑張ってたし、こんな本科派たちのなかにきちんと収まって、舞台人の役目を果たしている、彼女を、その活動初期から観ている者として、誇らしくもあった、な。

 ところで、も一つの
 
 アテルイもまた、かなり古くさいともいえる作品だけど、その古さもかえって大きな魅力となって、胸に刺さる、舞台だった。

 わらび座では、『アトム』というミュージカルを作らせて貰って、それは三年目の上演というロングランの幸福を迎えている。

 でも、正直言って、あの作品は、ぜったいに、わらび座じゃなきゃ、出来ないという舞台ではないのよね。
 
 むしろ、これを何で、秋田の山奥の劇団が作ってるのか、時に疑問に思うとか、そんなとこでよくこんなの作ったね、と言われるとか、そういう様相を持つ作品である。

 そもそもスタッフはわしを含めて、ほぼ東京の人たちなんだし。
  
 アテルイも基本的には、東京スタッフで作られた作品だ。
 しかし、わらび座が、ミュージカル製作を志して、かなり初期に作られた作品らしく、
 和太鼓とか、伝統的な民族舞踊的要素 とか

 わらび座が精魂込めて培ってきた、技が惜しげもなく投入されて作られている。
 大合戦の場面は、和太鼓の大合奏だったりして。

 私が『アトム』を作ったときには、確か、そういう、古いわらび的な要素はなるべく薄くして、というリクエストもあったと思う。
 まあ、わらび座も、時代と共に変わっていかなくちゃいけない、という強い、意志があったのだろう。
 敢えて、封印した感さえあった。

 でも、改めて、原点『アテルイ』を観て思ったのは

 これはわらび座にしか出来ない舞台であり、これを死守しないと、この劇団のアイデンティティ、さらには存在理由が消えるだろうということだ。

 もちろん、『アトム』のような、新しいチャレンジは、一方で追求し続けるとして、だ。

 井上ひさし さんのことを考えるとき、思うのは
 その、日本語を愛し、守り抜いた情熱である。
 それと、コメへの深い思い。

 我々が我々でいるのは、日本語という独自の言葉の存在と、国土そのものに依るところの、コメ作りである、いかに非合理的であっても、
 その独特の有様こそが、我らの国なのだ、

 というのは私の、乱暴なまとめ に過ぎないけど

 文化や生活における、グローバルスタンダード みたいなものの怪しさ、胡散臭さに対して、強く警鐘を鳴らし続けた先達である。

 我々は、どこまでも我々であるべきだ。

 たとえば英語を公用語とし、コメを捨てて、食生活を完全に欧米化すれば、この国も、まだまだ経済的に、発展する余地は生まれるかも知れない。
 
 だが、それはおそらく、どこかの国の完全な属国になることを意味する。
 今現在、かなり属国化は進んでいるけど、それでもまだ、我が国が、独自の存在であるのは、何と言っても、日本語という複雑怪奇な言語のおかげである。

 それを障壁と言うのは、あくまでもビジネス上の意見だ。
  
 たとえば、日本語がなくなれば、我々演劇人も映画作家たちも、あっという間に失業だろう。
 良くできた、ハリウッドとブロードウェイで事足りるからね。

 それでもゼンゼンいいじゃんと言う意見もあろうが、

 それは、真の意味で、他民族の侵略下に置かれたことのない、奇跡的な平和ボケ民族の、寝言である。

 そうなった時、我々はいつか必ず、失った自国文化の大きさに愕然とし、自分たちの正体が分からなくなり、バラバラになり、世界を無為にさすらい
 悲しく寂しい、根無しの人々となる。

 コメだって、食わなくたって、生きていけるさ。
 でも、そうなった時の寂しさは、誰だって感じるじゃない。
 それは信じてもない神様に対して、無理矢理、跪かされる、違和感と同じじゃないか。

 
 井上ひさし先生は、一見合理的だけど、実はとんでもない蛮行を実行しかねない、反文化的な愚かさに対して、誰よりも敏感に、反応し続けた人だと思う。

 たとえば名作『雨』の主人公は、羽振りの良い他人に必死に成り済ました結果、最後は自分が破滅する、憐れな男だ。
 雪やこんこん にもそういうことが書かれている。

 自分にとって何が大事か、問い直す人たちの姿がたくさん描かれている。
 
 自分が自分でないことは何よりも不幸なんだ。
 たとえ貧しくても、苦しくても。人が自分であることは、幸せなのである。
 でなきゃ、誰が、危険な独立戦争をするかね。
 あれはすべてイバラの道の選択だろう。でも、独立したいんだ。

 そういう意味で『アテルイ』は、わらび座が、わらび座である理由が、よく分かり、それが同時にとびきり美しく輝いた舞台だと思うのである。
 テーマも、独立そのものだしね。
 大和朝廷の横暴に対して、東北の鬼たちが、あくまでも立ち向かうマイノリティの精神だよ。

 それが流行るとか、当たるとか、それも大事なことで、我々は常にそこを狙っても行くのだけど

 そのために、自分が誰だか分からなくなるようなことをするのは、結局、ステキじゃないよな、
 とつくづく思ったのだった。
 
 アィデンティティを持つ者が、誰よりも美しいんだ。

 

 

 



 


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