いのち の話

 ちょっと早起きして、銀座で映画を観た。松山に行く前に観ときたかった、ピナ・バウシュの記録映画。
 
 ドイツの演劇的ダンスの巨匠である。惜しまれつつ、亡くなった。
 でも彼女の創ったダンスは今も、弟子たちのカラダの中に生き続けている。
 いのちが、燃えているような、踊りをこれでもかと、目撃した午前であった。
 
 で、その後、一と月、東京を離れる前に会っておきたい人がいて、品川のちょい先まで行って、長いお茶話をして、
 冷たい雨を恨みつつ、某私鉄駅で、急行への乗り換え待ちをしていた時のことである。

 ホームの端に立っていた、たぶんサラリーマンが、手に持っていたカバンと傘を、ホームにポトリと落とすと、そのままプールにでも落ちるみたいに、
 線路の方へ、倒れ込んでいった。

 わあ、であったか、ぐああ であったか、とにかく私は叫んだ。大きな声だったのは、はっきり記憶している。

 ほんの10メートルぐらい先のキョリである。
 寒いので私は、線路から少し離れ目に立っていたから、その人の姿は、線路の方へふわっと消えたように、なった。

 で、見ると、すでに私が乗り換えを待っていた、急行電車は、間近に近づいていた。
 そこからはコマ送りのようであった。

 数秒間、あったかどうか。
 一歩も動けず、立ちすくむしか他、手はなかった。
 私の位置からは、ホームの下で、その人がどうなっているか、まったく見えない。
 電車は、普段のように、ホームに進入して来て、
 だがしかし、

 ふいの異変に気づいた運転手が、ブレーキをかけた。
 けたたましく鳴り響く、警笛と、ブレーキの音。

 そして、その人が消えたところから三両分くらい通り過ぎたところで、電車は止まった。
 側にいた駅員と目があった。
 同じように、目撃した人たちと、目があった。

 それぞれに蒼白であった。
 たぶん、私も。

 でも、なにも見ていない人たちは、不思議そうにするばかり。
 ホームには、彼が落とした、カバンと傘が、ごく日常的に残されていた。

 私の位置からは、何も見えない。
 電車が入ってきて、更に不可視な状況になった。

 もっとも、動き回って、のぞき込む気持ちにもなれなかったが。

 そのまま最後まで見届けるべきかどうか、一瞬迷った。
 そういう仕事じゃないかと、も考えて。
 しかし気が付けば、そこを立ち去り、別の路線で移動する手段を考え歩き始めていた。

 電車が停止してからは、かなり落ち着いていたのだが、
 駅を離れ、歩き出してから、にわかにドキドキしてきた。胸の奥の方で、不快なモノの固まりが蠢き、むかつき出すのを感じた。

 あの光景は、鮮明に残っている。

 あの人は、あの時、発作か何かを起こしたのか。
 よく分からない。
 ただ、吸い寄せられるように、まっすぐと線路に倒れ込んでいった。そして消えたのである。

 見たことは、それだけだから、ここからはもしかしたら、まったく今日起きた出来事とは、関係のないことかもしれない。

 ここ数カ月、いのち について考えていた。
 月曜日からいよいよ稽古に取りかかる『幕末ガール』は、我が国初の女医というべき、オイネさんの物語だし。
 もうひとつ進行していた、作品も、同じく命が大きなテーマとなっているものであった。

 考えれば考えるほど、深く重くなるテーマである。

 でも、現実的には、生死の境は、我々の暮らしのなかに、かくも簡単なものとして、存在し、そこでは人は、かくも簡単にそこを超えてしまうこともある。
 生き残る、我々はただ、たまたまこちら側に立ち続けているに過ぎない。

 では、
 その違いが、つまり生きることと死ぬことが、ごく些細な差異しかないモノなのかというと、どうも違うような気がする。
 現場から離れていくにつれ、高まる鼓動を感じつつ、私は普段にはない、身体感覚を感じていた。

 ハムレットは、死は眠りに過ぎぬが、死んで見る夢が恐ろしいと言ったけど
 私には、むしろ、いきなり訪れる『無』こそが恐ろしいと思われた。夢のない眠り。
 自殺者は、それを安らぎと信じて、境界を超えたのだろう。

 その超越の結果、確かに、我々も一瞬巻き込んで、無がそこに生まれたと思う。

 互いに見合った、見知らぬ目撃者同士、一瞬に蒼白となった我々は、互いに無を体験したとしか言えない。
 その時、もはや何も為す術もなく、立ちすくむしかなかったのだから。何も言い合わず、目と目で、我々はその、時間も空間も突然停止して、色あせた、としか言えない『無』を了解した。

 やがてその凍結は溶け、それぞれに現実の時間に帰されて、役目を負う者と、逃げても良い者に立場が分かれたりして、『無』は我々の元からは消えていき、極めて通俗的な喧噪がホームに溢れていったのだった。

 その後、私はそこから逃げて、なんか全身が少しケイレンするような感じで、冷たい雨の中を歩いたわけだが、 
 胸にせり上がってくる、不快感と、恐怖感は、たった今味わった『無』に比して、極めて実感のあるモノで、

 ドキドキすればするほど、ムカムカすればするほど、カラダの中に血が通ってくるような感じがし、
 決して幸せなんかじゃないが、生きている安堵みたいなモノを受け取った気がした。

 ピナの踊りは、美しいだけじゃなく、痛みや苦しみも充満していて、混沌としている。
 それ故に、素晴らしいのであるが
 まさにそれこそがこの世の真実なんだよ、とムカムカしつつ、私は思った。
 そして『無』こそが、私にとって最も恐ろしいモノであり、飲み込まれてはいけない、敵なのだと、改めて考えたのだった。 


 踊り続けなさい。自分自身を見失わないために。

 というのが、ピナの残した言葉なのだそうだ。
 『無』はいつかは受け入れざるを得ない、もうひとつの真実である。いくら憎んでも、忌避しても、いつかは死ぬ。

 ピナだって、死んだ。

 でも、彼女は踊り続けてそこに行った。
 誰もが彼女のように、特別の踊りを残せるわけじゃないけれど
 それぞれのダンスを踊り続けることは出来る。

 

 後ろ姿しか知らない、あの人が、今どこかで安らかであることを心から祈る。





 
 
 
 

 
 
 

 
 
 
 
 
 

 

 

 



 

 
 
 

 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 


 
 


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