やっぱり泣いた。
厚木舞台アカデミーの発表会と卒業式。
文化会館の地下展示室の発表会なのに、立ち見まで出るぎっきりの客席。
一時間以上の、演し物。
途中のコントは、ラッキィ池田 作。
なんという贅沢。
見守る人たちの暖かさ、そして進化。
一時間、見る人を飽きさせないんだから。
五人の卒業生たちの挨拶では、もう号泣。
しかし、泣きながらも、それぞれしっかりと感謝を述べ、後輩たちにメッセージを送り、自分の未来を誓う。
こっちも、もう泣くしかないね。
しかし、その後、感動のままでは終わらず、
なぜか、ラッキイ池田の、ダメ押し的なコントが始まり、
泣き笑いの中、ラストダンスに。
感情の噴き出すまま、
涙っち になればいい、って。
にしても、始まって3年のアカデミー。
こんなに、人は育つモノかと、我ながら驚く。
子供だから、そもそも育つものなんだろうけど
昨日も、朝に通し稽古を見て、
カーテンコールの部分がチト物足りなかったので
卒業生たちに、自分たちで考えて、演出しなさいと言ったら
2時の本番までに、自分たちできっちりと打ち合わせて、稽古して、進化させてた。
ここは振りアリで踊り、ここは手拍子で、と。
そんなことがもう、自分たちで出来ちゃうんだ。
素晴らしいリーダーシップ、協調性。
スタート時は、大人の講師が話し出しても、おしゃべりが止まらず、よく叱られていたのに
最近では、みんなやるよ、
と上級生が言うだけで、サッと集合し、集中する。
歌にしても、踊りにしても、その精度や技術は、東京のタレントスクールの子たちにはかなわない。
こっちは月に数回しかレッスンはないし。
でも関わる人たちが一様に驚くのは、その自由さと創造性だ。
それはまあ、私と扉座が教えているから、自分で創ること、生み出すことを何より大事にしてる賜と、自慢しておく。
まず表現を好きになって、どんどん自分の中から生み出す。
とりあえず、パフォーマーの養成をしているけど、私はこのなかから、かならずクリエイターも生まれ育つと信じている。
実際、発表会の演目の半分は、子供たちの創作作品である。
それがキチンと受けている。
きっと、ここからオリジナルの戯曲や、ダンス、歌が生まれてゆく。
思いもつかない、美術品も出来てくる。
この営みが続いた先に、いったい何が起きるのか、とても楽しみだ。
でもそんなに先のことじゃない。卒業生が成人するのは、7年後。
二十歳の頃には、もう、扉座の前身、善人会議はスタートしてた。
でな
言っておくよ。
ここでは殴ったり、叩いたりは一切ナシだよ。
私なんか、怒鳴り声ひとつ、あげたこともない。
まあ、血気盛んな扉座指導員のなかには、たまに怒鳴ってたヤツもいたが
基本的に、縛り付けたり、押しつけたりはしない。まして、手をあげることはないし、させない。
だって、芸術は、何かのチカラに精神が縛られた途端に、輝きを失うモノだから。
いくら振りが揃っても、難しいことが出来ても、やる本人に目覚めがなくちゃ、ゼッタイ人の心は打たない。
感心されることはあっても、感動はうまれない。
伝統芸能の世界は厳しくて、親が子を叩いて育てるけど
それは、カタを植え付けるからだ。
カタは、徹底的に真似ることでしか習得できない。その先に、個性が生まれ、自由が生まれるという考え方だ。
それにはとても時間がかかるから、右も左も分からぬ子供のうちから叩いて鍛える。
その結果、ある種の奇形的人間が育つが、それが芸の輝きにもなる。
でも我々の表現に、そんなカタはない。
常に新しいモノを生み出していかなくちゃいけない。何より、全員がプロの何かになるわけじゃない。
そこが違う。
でも、そうやってユルく育てられても、
ちゃんと技術は進化してゆく。
楽しみを知ったモノは、進んで厳しいレッスンを求めるようになる。苦しくても、自分で頑張る。
昨日は、そんな姿が、誇らしかった。