父が亡くなりました。生前のご厚情に感謝いたします。

 父であり、扉座のスタッフでもあった、横内正純が2月10日に逝去致しました。皆さん、父を慕ってくれてありがとうございました。

 23歳の時、就職をせず、劇団活動を続けることを伝えた。
 しばし沈黙した後
「何にも支援できんぞ……しかし俺もサラリーマンだけが人生じゃないと思ってるよ」
 と言った。

 営業一筋で、戦後の高度経済成長期を生きた、典型的な中流サラリーマン。
 最後は出世して、新聞インキを作る会社の取締役になった。
 その父の会社が突然、買収されて、経営陣総とっかえとなり、突然行き場を失った。
 悲しき企業戦士……あの父が、その時は塞ぎこんで、とても見てられなかったということだよ。俺は家を離れて、必死に演劇やってたから、その間のことを知らなかったんだけどな。

 ちょうど劇団の運営体制を模索してた時期で、仕方なく私が会社を作って運営することになり、苦手な経理などを見て貰うことにした。
 その時は、今は立派な演出家になった、茅野イサムが私の番頭役で、しかも怪しいマネージャーでもあって、小さいながらも会社の通帳を預けることが限りなく不安であった。
 そんなことが起きたのが約20年前。実は父も経理なんかダメな人だったんだけどな。派手な営業プレイが生き甲斐の人だったから。

 ただ新人の世話を焼いたりするのが楽しかったらしく、突然行き場を失い、リアルに鬱になりかかっていた父は、劇団制作となって俄然、明るく元気になった。
 そのころ、山中崇史が新人でまだパシリだった頃、飯なんか奢ってたらしく、後に崇史がラジオやテレビに出始めた時、誰よりも喜び自慢にしていたのが父だった。

そこで全く別の世界を生きていた、父と息子の人生が重なった。

 父、通称ヨコウチパパが営業行脚して(近藤正臣さんに出て頂いた、怪人20面相 の頃)、縁を繋いでくれた東北の演劇鑑賞会などでは、私よりも顔が利くほどであった。どこかの高校演劇部で語ってくれと頼まれ、断りもせず出向いて、演劇のことをしやーしやーと話したという。言っておくが、演劇のことなんか何にも知らないんである。
 ただ俺の父だと言うだけだ。
 営業てのはな、人と人の繋がりでやるもので、売る商品なんか何でもいいんだ、とよく言っていた。

 昨年9月まで、神楽坂でのちょい飲みを日課にしていたが、どうにもおかしいとなって、検査したら、胃を中心に内臓全体に癌の転移が見つかった。
 数年前から痩せて来たので、検査に行けと、家族も言ってたけど、糖尿が原因の不調と医者が言ってるとごまかしていた、本人うすうすは気付いていながら、逃げていたようだ。
 楽しいことを、優先したいと思ったんだろう。

 治療しない。家族も同意で、そう決心した。

 私の神奈川の恩人であった、元青少年センター館長・田村忠雄先生が同じく癌で入院なさった時、ここは治療はしないんだ、と微笑みつつ、その代わりこうして君とも最後の話がゆっくり出来る、と仰っていた姿を思い出し、提案したら、妹が町田市民病院に、緩和ケアの病棟があるのを見つけてくれた。

 治療はしない、ひとすら苦しみと痛みを抑えることに専念し、クオリティ オブ ライフを追求する。
本人にも家族にも、覚悟は要るけど、オトーさんずっとカッコよく居たい人だからね。

 結果として、この病院が素晴らしかった。
 亡くなるまで2か月、父はここで過ごしたけど、大切な時間がここで過ごせた。
 樹木希林さんが語っていた通り、癌にもよいところがある。
 それは時間が持てること。

 闘病しないことを決めたから、豊かな時間が生まれた。

 12月8日に入院。それまでは自宅療養だった。
 最後の仕事は、扉座公演『最後の伝令』厚木市文化会館でのロビー立ち。
 そして紀伊國屋ホール、千穐楽でのロビー立ち。
 実は厚木の時、本番途中で苦しくなって芝居を最後まで見られなかった。
 『最後の伝令』は青森の横内の遠縁の人の話でもあった。
 特に ねぶた祭りのシーンなんか、父に観て貰わなきゃいけないシーン。

 父は母を連れて、昨年の夏、人生初の ねぶた祭を見ていた。
 横内のルーツの故郷の祭りだから、死ぬ前に観なきゃと言って出かけていた。

 思えばあの時、予感があったのだろうね。

 そんなこと知らずに、こっちは純粋に芝居として、作ったシーンだったのだけどね。俺にも何かの予感があったのかもしれない。

 紀伊國屋で、見落としていたラスト30分を見た。
 隣で見ていた義理の弟が、教えてくれた。

 お父さん、ずっと泣いてましたよ。

 ホールの階段を上がるのが辛そうだった。私は生まれて初めて、父の手をあんなに強く握って、紀伊國屋ホールの階段を上らせたよ。
 子供の時は、逆だったんだろうけど。

 終演後、倒れるんじゃないかと思った。でも父は、その時、俄然、元気になった。
 いつものようにロビーに立って、お客様を見送り始めた。
 あの階段を上がることが辛そうだった父が、片時も座らず、約30分ずっとニコニコとお客様にご挨拶し、次の公演もここに立っていますからね、扉座を頼みますよ、と言っている。
 おおかた、お客様が退けたところで、「じゃ、帰るよ」といつものように、変な敬礼をして劇場を出て行った。
 帰り場所は病室だけど。

 歩いて、小田急まで行ったそうだよ。途中で、中村屋のメロンパンを買って、付き添ってくれた妹たちのために。
 もういいから帰ろうと、妹が心配して何度も促したが、この季節だけのものだから買うんだ、と頑として聞かなかったと言う。


 病院では、尿道に管が入って、寝たきりだった。
 そして段々、体力が落ち、食べる量が減っていった。
 年内は無理かも、と言われていたんだ。
 それでも正月は一時帰宅を二泊も果たした。

 有り難かったのは、ひっきりなしにお見舞いに来て下った皆様。
 父は人に会うたびに、冗談を言って笑い、元気になった。
 明日は誰誰が来る、その予定がこの2か月の生き甲斐だった。

 過去の楽しい思い出話もしたけど、
 今この時と、明日の予定がエネルギーだった。
 明日を考えて、浮き浮きしてた。過去のことなんか、どうでもいいんだ。
 それは最後の最後まで変わらなかった。

 これは死ぬ前日のことですよ。

「トゥモロー、入れ歯 たのむよ」

 ただでさえ、声が出なくなってて聞き取れないのに、突然、英語になるから、付き添う家族一同「ともろ」って何だ?と、ひとしきり悩んだよ。

 今、思えば明日死ぬ予定を自分で立てて、楽しくなったんだな。
 ついては、ずっと外していた入れ歯を入れてくれ というリクエストであった。

 長嶋茂雄の変な英語を世間の人は笑っていたけど、私はずっと、うちの父さんと同じだよ、と思っていたが、なんでここだけ、トゥモローだったんだろうね。

 さすがに、上下の総入れ歯を抜いた顔は、爺さんそのものだったから、本人は忸怩たる思いでいたのだろうね。髪の毛はついにフサフサのままだったしな。
 
 トゥモローだよ!

 自分で立てた予定通り、そのトゥモローに死んで、入れ歯が入ったわけだ。

 実習で若い看護師の卵たちが付いていてくれて、これまた献身的にお世話してくれてたんだけど、可愛い手で入れ歯を入れて貰った後、彼は明らかに笑った顔になったよ。
 もう死んでるのに。

 父を襲った癌は、なぜか分からないけど、彼の脳味噌と、口回りだけは攻撃をしなかった。
 だから、本当の最後の最後まで、意識がしっかりとあって、言葉が使えた。

 点滴もやりません。しかし痛みが出たら、その時は、緩和する薬を使います。
 ただし、その時は意識が薄れていきます。

 そうご説明を受けていて、その時が父の人生の実質的な終わりだな、と覚悟していた。
 しかし、その時はついに来なかった。

 なぜか痛くならなかったんだ。
 苦しむこともほぼなかった。
 見事に癌を飼いならしたよ。

 彼はぜんぜん闘ってない、飼い馴らした。

 私が博多座の『新版オグリ』の初日で、3泊離れた。旅立つ前日からおかゆが喉を通らなくなった。もう会えないかなと思ったけど、帰りを待っていてくれた。

 オグリ、また良くなったよ。とパンフを渡して報告すると、
 「ソウカ、よし」とはっきり言ってOKサインを出した。

 癌を宣告されて、かなり辛くなってた時期、新橋演舞場の『新版オグリ』全編を頑張って見ていてたんだ。

 その後、突然、アイスキャンデーをくれ、とリクエストした。

 クリームじゃないよ! ここだけは突然大声だったな。

水を飲むのも辛くなって、氷の欠片で代用していたんだが、オグリの初日を超えたお祝いだったんだな、アレはきっと。
オグリの初日の朝に「もう死ぬよ」と言ったそうだよ。
それを聞いた妹が「初日だから迷惑かかるよ」と言うと、
「じゃ死ねない」と言ったそうだ。

この頃から、薬も一切なし。
水も小鳥さん程度。それでも時々、しゃべってた。
右手は自由に動くので、時々、酸素マスクを外してチョンマゲのように頭に乗せて、笑っていた。OK、指差し。言葉は減ったが、黙ってなかった。

次には扉座研究所卒業公演『LOVELOVELOVE』が控えていた。
少しボケ始めた母が、何度も何度も
「今年はあなたとloveloveloveに行けないわね」と語り掛ける。
二人で並んでLOVELOVELOVEを見ることが、習わしだった。

二人とも昔は、有名人の出る舞台しか興味がないようなミーハーだったのに、
名前ばかりの変な芝居より、LOVELOVELOVEは100倍良いと、良く言っていた。この公演のファンだったんだ。

そのゲネの日も、血圧が下がっていた。
 「行っていいかい?」と聞くと、頷いて、前方を指さした。
 いかりや長介の「いってみよー」に聞こえた。
 博多行きからずっと帰ってなかったので、一時帰宅。しかし翌朝5時にまた、ヤバいかもと知らされて、夜明け前に病院に駆けつける。

 まだくたばらないよ、と小さく言った。

 でも終日眠そうだった。

 さて、その夜は、初日。
 もう何度も別れを言い合ったから、

 「俺は行くよ」と言うと、OKサインだった。

 LOVELOVELOVEの初日を見届けて、錦糸町からタクシーを飛ばして病院に戻り、無事に開いたよ、良い舞台だよ、と伝えたら。

 今度は笑わず、目を閉じて、「ああ……」と深いため息を付いた。
 安堵の、ああ~ だよ。
 ついにここまで見届けてくれたよ、父は。

 最後は、眠ったのかと思った。
 呼吸一つ乱れることがなかった。
 看護師さんたちがケアに来てくれていて、私も枕元にいた。

 水も飲まずに、どうして生きてるんですか?

 そんなことを話しているうちに、ふと見て、アレ、息してなくない?

 そんな感じ。

 家族もいたけどね。そこに実習の若い女性看護師3人と、男の子1人。
 最後を見届けてくれた。
 本当に良い子たちで、父も語ったそうだよ。

 たぶんうちの若い人たちに、よく語っていた感じで、そうしたんだろうな。

 選んだ道を、しっかりと進んで行きなさい。

 その若い看護師の卵たちが、何だかやり遂げた感で、むしろ清々しくさえなっていた我々家族よりも、何倍も号泣してくれて、

 まっすぐ進めって、言って下さったんです。
横内さんとのお約束通り、必ず良い看護師になります!と父の手を握って言ってくれてね。

私は父の死より、それ見て泣いたよ。
病院と医師と、看護師さんたちの存在の有り難さを噛みしめつつ。

どうか立派な看護師さんになって、私たちがそうして頂いたように、たくさんの患者さん、ご家族の悲しみの中に、素晴らしい希望と、ケアの温もりを授けてあげて下さい。

父は、最後の最後まで、若く美しい女の子たちに囲まれて、良いところを見せていました。
今年のLOVELOVELOVEでも、研究生たちにそうやりたかっただろうがね……

きっとあの世から、何か届けてくれるだろう。

 まだまだ面白い話がたくさんあるんだけど、それは徐々にお伝えします。

 この間、皆様にご心配おかけして、仕事の面でも、ご迷惑もおかけしたかと思います。
 でも、こうして無事に、見送ることが出来ました。
 ご理解と、ご声援をありがとうござました。

 葬儀は身内で、と言いたいところですが、ちゃんとやれよ、と言うのが父の命で。
 何がちゃんとか、分かりませんが、まあ、私なり、扉座なりに。
 祭壇の写真まで、去年のうちに弊社赤星に撮らせて、用意してあったりするので、父が20年前に自分のために建てた墓のある、鶴川のお寺で執り行います。

 都心から離れていて、広くもない場所で、肺炎の心配なんかも有るこの時期、どうぞご無理のない範囲で、お見守り下さい。

 最後の最後まで、母と劇団を案じていました。
 父の思いを大切にしつつ、どちらも大事にしてゆきます。

 皆様に心から感謝いたします。

 2月11日、横内謙介


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