私が訴えられたんじゃないです。 そして雑感。

まあ、例の判決については、今後を見守ることにして、あんまり騒がぬことにしよう。
何しろ、気付けば私一人で騒いでるんで、

何たることか
扉座の横内が訴えられて、支払い命令を受けたらしいという噂まで流れているらしい。

面白いけど、誤報です。
ニュースを見て、勝手に騒いだだけです。

冷静な人たちは、あれは特殊な悪例だから、勝手に騒ぐな、一般に広がるものじゃないよと言っている。
私もそうなのだろうと思う。

ただね、おもなる報道で『劇団活動も労働』その判決が画期的!みたいな感じで、見出しが躍ってしまったから。それが独り歩きする可能性が大きくて、
それを心配したのである。

騒ぐ私を宥めよう、たしなめようと、多くの方から、判決を細かく読んでごらんよ。君にはそんなに関係ないから、と言ってもらったけど。
市井の人は、よほどのことじゃない限り、判決を細かくなんか読まないからさ。

劇団て酷いとこだな、としか思わないだろうと思うんだ。
実際、安すぎるギャラで、私も含めて、みんながタダ働きとしか言えないことを、たくさんしてるからね。
それは劇団活動に限らず、演劇に携わる人たちみんなだよ。

だからって「趣味だ」と思ってやってる人は、そんなにいないんだ。
自虐でそう呼ぶことはあってもね。
たぶんみんな、立派な仕事だと思ってるよ。たとえそれがノーギャラでもね。

仕事ってのは対価を得て初めて仕事なんだよ。

そんなこと分かってるんだって。

たぶんここは平行線だろう。
そして私の理屈は、政治的に正しいものではない、正しい世界と乖離した、危険きわまりない私道であり、ケモノ道なんだろう。
でも社会の道とはどこまでも平行線の、その道を、まっしぐらに駆けている人たちも少なくない。
これも確かな現実なんだ。

この世界にある、『立場』というモノの数だけ、
世界は存在すると思うんだ。
そのすべてを測ることの出来る計測器って何だ?
現状、それは金しかない。
宗教も哲学も、世界が多様に広がるほど、苦戦している。
金だけが、元気に、力を増して多様な世界を縦横に駆け巡ってジャッジしている。
善も悪も、時には美醜さえ、幸福不幸さえ金が価値を決めている。
現に今回の判決も、金で決着が付けられる。
芝居がしたかった、役者になりたかった、という彼の思いも時給として計算された。
ただ唯一芸術は、自由な精神の生み出す表現活動は、それを超える値打ちを生み出したいじゃないか。
値段の付かない値打ちをさ。
もちろん芸術家だって食わなきゃいけない、衣食住は必要だ。
だから仮の値段は付くさ。作品だけじゃなく仕事にも値段は付く。
金という落としどころとも、ちゃんと付き合って生きて行くさ。
でもそれはあくまでも仮の値だといいたいんだ。
本当は値段なんか付かないよ、
我々が創り出しているのは、金で計測されるような安っぽい価値じゃないんだ。

プライスレスって、宣伝があったよね。
プライスレスだよ。

この道を征く演劇人の心の中には、多かれ少なかれそういう気持ちがあると信じる。
こんなこと大っぴらに言うことは野暮の極みだからね。
誰もそんなこと、口に出しては言わないけれど。

経済的にはまったく報われることなく貧しいままに、活動の場から去った人たちも大勢いるからさ。なかには故人もたくさんいる。
素晴らしい作品を創り上げ、多くの人の心に影響を与えた人たち。
絵画や楽曲なら残ることもあるけれど、生まれては消えてゆく宿命の演劇なので、それを見た人たちが世を去れば、噂にもならなくなるんだが。
今、世界を牛耳る経済の理屈で言えば、彼らは趣味で生きたことになるんだろう。
そんなふうにジャッジされる、故人たちの無念を思うと、
依り代となって、彼ら彼女らの無念の思いを汲み取る旅僧にでもなろうかと思うぞ。

私たちだって、ああ趣味でやってるのね、と言われたら悲しいな。

私には、高い仕事料を頂いてやる仕事もあるけどさ。
40年ずっと変わらず心血注いでやって来たのは、劇団活動だ。
高いギャラを頂く仕事と同じ思い、同じ力を常に注ぎ込んで劇団の仕事をして来たつもりだ。


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