我が師に捧ぐ その①

九月十三日、逝去された大切な師・三代目猿之助=猿翁さんのことを書き残しておこうと思う。(あくまでも私的な覚書なので、記録が正確でない場合も多々あると思う。とりあえず思いつくまま書いて、正確なことが分かったらその都度に訂正してゆく。今は思いのままに書く)

 2003年の11月。博多座でご自身の演出した『西太后』の上演中、舌がもつれるようでセリフが明晰でなく、いつもの若旦那と様子が違うと周囲の人たちが感じて、終演後に病院に行って検査、そこで小さな脳梗塞が発見された。
 すぐに降板が決定され、市川右近(現・右團次)が代役を勤め、本人は治療と療養に入る。

 梗塞の中でも、CTじゃないとみつけられない小さなラクナ梗塞という見立てで(まだМRIの時代じゃなかったのかな?)、療養しリハビリすれば、舞台復帰も十分可能だという話だった。

 その12月末、3月に新橋演舞場で上演し、翌年3月の再演が予定されていた『スーパー歌舞伎 新三国 完結編』の事前稽古をしたいと、軽井沢の別荘に呼ばれる。病後、いろいろ不安があるので、出来れば長いセリフなどは刈り込んで欲しい、出番も減らしたので検討して欲しいという話だった。

 とりあえず一回さらってみましょうと、別荘の稽古場で弟子数人と三代目登場シーンを、実際に本人が立ってセリフと動きを半日かけてすべてやってみた。
 ところどころ忘れていたり、少し不明瞭になるところはあったが、半年以上間が空いていたし、今これだけ出来れば
十分じゃないか、出番の軽減を実現すれば、三か月後はきっと大丈夫。とそこにいた関係者、私も含めて皆が安堵した。

 本人も、この時は、当然のように舞台に戻るつもりでいたのだ。

 ところがその後、最初の復帰となった年明けの東北巡業の途中から、目に見えて不調となり、日に日に元気、精気を失って、魂が抜けたようになってしまう。楽しみにしている地方のお客さんをがっかりさせてはいけないと、一座も必死に支えて、旅と公演だけは続けていたが、これはもはや、あの猿之助ではない、と周囲の者たちは感じざるを得なかった。
 結果、演舞場出演は叶わなくなる。
その代役は、市川段治郎(現・喜多村祿郎)がすべて勤めた。年末以来準備を進めていた、カット版も不要となった。

 その公演の千秋楽、重責を背負って代役を勤めあげて、師に替わって最後の宙乗りで天翔けた、段治郎の眼から、涙が一気にこぼれ落ちた。
 その涙は、舞い散る桃の花びらとともに、キラキラと光りつつ宙を舞って客席に降り注いだ。
 今も忘れられぬ、光景である。

 いつの間にか、師の病いが気持ちに転じていた。

 思えば軽井沢での稽古の後、私たちは、大丈夫!と安堵し、別荘専属だったお抱えシェフの作ってくれた上等な料理に舌鼓を打ち賑やかに過ごす中、三代目は時々、それでも不安だよ、と呟き、食事中に、二度も血圧を計っていた。

 あの健啖家が、その日は皆とは違う、減塩料理を用意させ、しかも量も控えていた。

 紫さんは「大丈夫よ、血圧はそんなに急に変わりませんよ」母親のように優しく宥めていたな。

 この時はまだ、普通に笑いもしてたし、お話も出来ていたのだ。いつものように、この先の事、新三国志シリーズの後の公演プランも語っておられた。
 次のスーパー歌舞伎は劇団新感線の座付き作者、中島かずき氏に執筆依頼するという計画も進んでいたはずだ。
 私には、藤山直美さんとやろうと話している、スーパー喜劇を依頼したいとも言って下さった。

 ただそういう言葉の端々に不安の影がふっと差し、沈黙する。

 新たな企画を語りだすと、真夜中まで止まることなく、愉快そうに語っておられたのに。その時、私にもふっと、今までとは何かが違う、という違和感と不安がよぎった。

 芝居でも、小さなことでも気になると、解決されるまで先には進まないということが多々あった。

 完璧主義者ともいうけれど、過度の心配性だと思うこともあった。
 私が初めて三代目と取り組んだ作品『雪之丞変化2001年』の舞台稽古で、春猿(現・河合雪之丞)演じる軽業お初の撃つ短筒の火薬を使い切ってしまった。想定外のやり直しで、足りなくなったのだ。
 その時すでに深夜0時過ぎ。稽古は夜を徹して朝まで続きそうだった。
特効のスタッフはもう帰宅していた。
 三代目は叫んだ。

 「本番通りにしたいんです。今から職人を起こして、火薬持って来させて」

 火薬はなくても、場当たりぐらい続けられるのに。倹約大事な小劇団の座長である私は、この人は狂人かと思った。
 
 忘れもしないその公演のゲネの後、舞台集合した二十一世紀歌舞伎組たちは、連夜の睡眠不足と疲れで、目に見えて衰弱していた。しかもパルコ劇場に入る直前まで、今も伝説に語られる軽井沢の地獄の夏合宿稽古で、心身ともにぎりぎりまで追い詰められていた。軽井沢には後に立派な別荘と稽古場が建ったが、この時はキャベツ畑に建つプレハブの稽古場に、貸布団を敷き詰めて若手たちは雑魚寝していた。
 しかも、この時の三代目はとても厳しかった。どんなに怒っても、弟子に手を上げたりするようなことは決してない師であったが、求めるモノに妥協はなかった。そこは火薬職人に対するのと何も違いはない。

 今ここでやって下さい。

 この時、あまりの過酷さに途中で脱走者も出ている。
 皆はこの地を、おもだかサティアンと密かに呼んでいた。
 
 そんな限界の彼らに向かって、三代目は言った。

 「この程度で疲れてんじゃありませんよ。私はもっと大変なことをやってきました」

 この公演で雪之丞役で主演していたのが、今年八月、九月、「新水滸伝」主役林沖を演じた、中村隼人のお父さん、
中村信二郎(現・錦之助)さんであった。その公演のさなかに、師・猿翁は逝去したので、私はそこにも深い因縁を感じずにはいられない。

 とにかく、思い通りにいかないと気が済まない人だった。
 その姿勢と執念が、あの唯一無二の、おもだかクオリティを作り上げていた原動力でもあったのだが、、、

 自分のカラダが、力が、思い通りにいかなくなった。

 そのショックは我々が思う以上に、本人の中で深刻だったのだ。そしてパニックに陥ってしまった。
 脳梗塞以来、療養生活で引退状態だったとされているけれど、
 キッカケは小さな脳梗塞で、そこから師は、三代目猿之助という自らが築き上げた、大きな存在との精神的な闘い、堂々巡りの葛藤状態に入ってしまったと私は思う。

 後遺症は多少残りますが、リハビリをすれば、舞台復帰も充分に可能です。

 医師の言葉に我々は希望しか見なかったけれど、師は、後遺症が残る、という言葉に躓いた。

 夜中に、火薬職人を叩き起こすように「起きろ、猿之助!目覚めよ、猿之助!」と別荘の大きな窓から浅間山を眺めつつ、心の中でずっと叫んでいたのだと思う。
 
 倒れたのちの、案外元気な姿と、その頭脳に翳りを全く感じなかった者たちは、今もそれぞれに後悔を感じている。
 あの時、自分にも何かが出来たのではないか、そこまでの苦しみにはまり込む前に、役に立てることがあったのではないか。
 もしあそこで、流れを止められていたら。

 私の場合は、俳優としての師をもちろん愛してはいたけれど、現代を代表する稀代の演出家として、より畏怖を感じて、この人がこの世界に生み出すものを見届けたいと心から思っていたので、
 俳優としての仕事は減っても、むしろそれを新たなスタートの契機として、歌舞伎を超えた広い世界で、活躍する道が更に開けるはずだと、腹斬る覚悟で、もっと強く進言すれば良かったと悔いている。

 もっとも、心から芝居が、歌舞伎が、好きな人だったから、その理は通じても情には至らなかっただろう。
 天才演出家は、生まれついての、でたがり、やりたがりの塊でもあった。

 師の芝居中の一番素敵な瞬間は、大技が決まって、どうだと見得する時。
 その大技は、自分の演技だけのみならず、演出を含んで、

 こんなの見たことある?ないでしょ?凄いでしょ?どうだ、どうだ、どうだ!(どうだ!は三回)

 得意満面で、自己陶酔の極致に至っている時の姿だ。

 離見の見 こそ芝居の極意!と世阿弥の言葉をよく引用していた。
 けど、その時の師は、そんな哲学的ないぶし銀の境地なんか軽々と乗り越えて、
 気持ちよく、舞台に、そして己に無邪気、無心で、酔いしれていたと、私は感じる。
 究極のハレ姿、我が師には、それが最も自然で美しい姿だった。

 その時、三代目は我が身に火を放って、宇宙に輝く星の光を発していたよ。
 
 そんな師は、小さな脳梗塞から、心が弱り、そこから別の病まで引き寄せてしまった。
 

 今回の最後に付け加えとく。

 今、猿翁さんについていろんなことが言われていて、その多くは、よく知らない世の人々に向けて、
家族とか、恋とか、誰でもが身近に感じられる切り口で語られているわけだけど、
 
師の真心は、徹頭徹尾、芸と芝居のなかにあった。

まあ、順番の付けられるものではないけれど。
師の中には、明らかに順番があったと思う。

芝居が一番。

親の死に目に会えないなんて馬鹿なことはやめよう。大事なことがあれば、舞台を休んでも良いよ。舞台はこの先もあるのだから。

常々そう語っておられた。情を持たぬ変人、非常識人では決してない。
でも、そんなことを語るのも、芝居とは何かを、ずっと考え、追い求めていたからに違いない。


世間的には、家族や恋とか、分かりやすい切り口で語られて構わないと思う。
あの世で、きっとそれも楽しんでおられる。
芝居に出来ないかね、とかいいながら。

ただ、私の同志たち、観客の皆さん、には、共有して欲しいものがある。

それは如何に、師が芝居、舞台というものに心血を注ぎ、そのために生き抜いたか、ということだ。
極論すれば、師にとって、

この世界は芝居の為にあった。

その常識の本末転倒。そこが三代目猿之助の凄さで、哀しさでもある。
その人生は、人間サイズの世話物ではなく、常人にはとても真似出来ない荒事であった。

※一部敬称略  愛着を込めて


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