我が師に捧ぐ その② その名は猿之助

※この記録は、あくまでも私の個人的な記憶と、感じ方に基づくものです。


格式から言えば、猿之助という名は、父が名乗り弟さんが継いだ、市川段四郎の名より下なのだそうだ。
でも、師は、祖父である二代目猿之助を敬愛し、その名に憧れていたという。

いつだったか、軽井沢にあった資料倉庫を案内して貰った。そこには古いアルバムなども整頓して、保管してあった。
師は記録魔で、かなり詳細な日記などもたくさん残している。

若い頃、誰だれと何時から何時までデートした。
みたいなこともしっかり書かれている。
歌舞伎座終演後、深夜に当時のガールフレンドと落ち合って、自身の自動車で横浜に行き、そのまま朝まで過ごし、何回愛し合い、翌朝、歌舞伎座に戻って来た、なんてことまで書き記されている。(※ただし微妙な部分はフランス語で書かれている。倉庫でその手帳を見つつ、丁寧に解説して下さった)
その頃、徹夜デートからの帰り、寝不足で、早朝皇居前の電柱に派手に車をぶつけてしまった。

「しかし当時の警察ものんびりしてて、これから歌舞伎座の舞台があって急いでいると言うと、そのまま見逃してくれましたよ」

そもそも、あの師がご自身でスポーツカーを運転していたというのも意外な驚きだった。
考えてみりゃ、芝居漬けにしか見えなかった師にも、青春時代があったわけで、それぐらいの冒険や、過ちはあって当然のことなんだが。
こんなことを書くと、世間はアレコレ言うかもしれないけれど、芝居のことばかりずーっと話していた軽井沢で、
時折、こんなことで馬鹿笑いする姿は、

人間猿之助の温かな地肌を感じさせてくれた。

三代目の芝居はクドくて、理屈っぽいとよく言われていた。確かにシークレットダイアリーをフランス語で書くようなインテリだし、
理論派だし、説明好きだった。それが良くも悪くも師のスタイルで、創作の味付けだった。
しかし、こと俳優としての演技になると、理よりも、遥かに深い情感が常に漂っていたと私は思う。
ラブシーンにせよ、親子の情愛の表現にせよ。生々しくリアルで、熱かった。

人として滾るマグマの塊なのだ。

ただ、たぎりすぎるがゆえに、見境なく突き進み、暴走して何かに衝突し、他に軋轢を生じさせ、人を傷つけてしまうこともあっただろう。
スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で、タケルは傲慢の病にかかり、伊吹山で油断して真白なイノシシに致命傷を負わされるが、

「私も時々、やりすぎます。まさに傲慢の病です」と真面目な顔で、過去を反省される、その姿は思わず吹き出してしまいそうな愛嬌に充ちて、可愛くもあった。

やたらモテる男だったのだ。
その部分も多くの女たちに助けられ支えられて生きた、タケルそのものであった。
そして実は、恋多き人でもあったらしい。

ここら辺、報道では有名な人の名しか出ないから、簡単な図式に乱暴に落とし込まれてしまうけれど、
そしてその図が単純化された分、刺々しく見えてしまうけれど、
有名無名、長短に関わらず、師の中に花咲いた恋はそのひとつひとつが愛しく、懐かしく、師の心の中に、甘く切ない香りを残していたのだと思う。
師の芝居には、その香りがいつも豊かに漂っていた。
師の青春は芳醇であった。

その度に、偽りなく燃え上がってました。夢中です。まさに夢の中。睡眠削って、見る夢ですけどね。

聞いてないことまで赤裸々に御開帳してくれて、そう語ってくれた。
それは嘘じゃないと思う。

ただし繰り返すが、その情熱が最も注がれたのはやっぱり、芝居、舞台である。
常にその一点は変わらない。
人並み以上に熱く奔放な青春時代もあったようだけれど、その順位は絶対に揺るがない。

倉庫にあった古いアルバムの中には、後楽園球場の巨人軍ベンチで、父・三代目段四郎さんと、少年時代の師が、野球帽を被って選手たちとともに写っている写真まであった。
王、長嶋の時代の、更に前のことだろう。川上哲治がまだ選手だった頃じゃないだろうか。

それを見て私が、凄いお宝写真じゃないすか!と興奮して騒いでいたら。
師は言った。

「ボクは全然楽しくなかったですよ。父はこういうことが大好きで、いろんなとこに連れまわされたけど、そんなことしているより、赤坂の猿翁さんの家で、こたつに入りながら芝居の話をしていたかった」

師のお父さんは、社交的な人気者だったようだ。お母様は、往年の銀幕の大女優・若杉早苗さん。
お付き合いするなら断然、この華やかで、世慣れたご夫婦の方で、こたつで爺さんとずーっと歌舞伎の話をしている少年は、ちと気味悪い、と私は思う。
巨人軍ベンチにまで入れて貰って、伝説のような選手たちに頭撫でて貰ってるのに、このガキ、少しははしゃげよ、だ。

後に、ガールフレンドと徹夜で遊ぶような若者に育ってくれて、むしろホッとする。

その頃から、猿之助の名に、愛着を抱いたのであろう。

師が大きくなって、そろそろ幼名の團子を卒業させようという話になった。
そこそこ歴史ある名も勧められたが、本人は全く気が乗らない。
なるならば、猿之助 ひとつと決めていたのだ。
紛糾した挙句、ならばいっそ、どこにもない名で、となって「雪之丞」という名を新たに作って、名乗ることにした。
たぶん後に二十一世紀歌舞伎組でやった人気大衆小説「雪之丞変化」からとって来た名だ。

その名を入れた配り物もすでに用意してあったという。
この時も周囲と揉めたそうだ。
それでも頑として親の言い付けも聞かなかった。

雪之丞になりますっ!

役者として最も憧れたのは、祖父でしたから。

さて、お披露目という時に、祖父二代目が病に倒れた。その時に頭に金の矢が刺さる夢を見て、
猿之助の名をお前に譲る、と言ったという。これは有名な話。

幻の名「雪之丞」は劇団新派に移籍した、弟子・春猿が譲り受けて今、河合雪之丞として名乗っている。
また、師がこたつで歌舞伎の話をしていた祖父二代目猿之助の屋敷の跡地には、現在、紫派藤間流の稽古場と、赤坂見附の「うまや」というお店がある。

たとえば映画俳優で日本一になったとしても、世界は遠いでしょう。
しかし歌舞伎で一番となれば、それが世界一です!

お話の会などでそう語られていて、良くできた言葉だから、それで歌舞伎道に邁進しておられるのだろう。と世の人たちは納得する。
私も面倒くさい時は、師はそう語られていました、で済ますけれど、
それは後付けの理屈だと思う。
師は時々、我が言葉に酔われる。

むしろ私は、こちらの言葉が真実に近いと思う。

学生時代に、演劇部で新劇っぽいこともした。舞台美術も自分でデザインしましたよ。
テレビもラジオも、映画もやった。
ミュージカルにも出ました。ろくに歌えないのにね。そこで浜さんと出会って、恋に落ちました。
若い頃、芝居と名の付くものは手当たり次第に経験したんです。
それで私の中の結論が出ました。

歌舞伎以上に面白いものはない。
以来、他のお誘いは一切、辞退しています。

私は歌舞伎以外の世界から来て、今も、歌舞伎以外に本籍があるから、
100パーセント同意はしない。
けれど、師の思いはそれが真実だったと思う。
心底、歌舞伎を愛していた。

市川右近(現・右團次)がある時、語ってくれた。

さんざんスーパー歌舞伎をやって、久しぶりに歌舞伎座に戻ったんです。みんな少し休みが欲しかった。
出し物は、四の切。
もう稽古なしでも、いつでもやれる定番だ。

ヤレヤレという感じで、皆、いたんですが、
そんな舞台稽古の時、
誰よりも早く拵えを済ませて、舞台に飾られた法眼館に腰かけている三代目がいた。
三代目は、ニコニコで誰もいない客席を眺めて、早くやりましょう、とはしゃいでいた。
遠足に来た子供みたいに、足をぶらぶらさせて。
一階から、やがて自分が白い狐となって飛び去るはずの三階まで、隅々まで愛しげに見渡して。

この人、本当に本当に本当に(※ここ三回)歌舞伎が好きなんだなあ、と思ったと。

その時、師の眼は世界なんか見ていたはずはない。
そこに見えていたのはきっと、歌舞伎座の広い客席を埋めた、満員のお客さんたち。
その人たちの笑顔、びっくり顔、泣き顔。

青春の情熱で恋人を思うように、それらの姿を思い浮かべて、
一刻も早く会って、抱きしめたいと思っていたはずだ。


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