我が師に捧ぐ ➂ 反逆児

 スーパー歌舞伎の全盛時代。師は東京駅で、置き引きに遭った。大阪公演に向かう途中、さまざま大事な物の入っていたヴィトンのアタッシュケース。見るからにセレブなカバンで、その道のプロに目を付けられたのだろう。ふとした隙に、盗まれてしまった。
 たしか報道はされなかったけど。

 その時、師はパニックになり、叫んだ。「台本が!台本が!」

 新幹線の中で、数か月ぶりに上演するスーパー歌舞伎のセリフをさらっていこうと決めていたのだ。
 決めた予定が、崩れることを何よりも嫌う人だった。
新幹線の中でしかとやる。それで準備を整える。
 師の台本には、数々の修正が施され、切ったり張ったりしてあって、さらに自身の手で演出ポイントなど、ぎっしりと細かな書き込みがしてあった。他の台本では代用が効かないのだ。

 あの台本がなくては芝居が出来ない!

 大騒ぎになった。
 警察も来た。警官は尋ねた。「入っていたのは、台本だけですか?」
 「あ、そうだ、〇〇〇万円も」

 その瞬間まで、大阪でご馳走を食べるため、振舞うためにと用意してあった、ヘソクリのことはすっかり忘れていた。
 そんな人だった。

 歌舞伎の反逆児、改革者、と呼ばれる。特に今、回顧的な紹介でそう書かれることが多い。そうじゃなくて、我が国を代表するクリエイター、稀代の演出家、だと私は訴え続けている。

 そもそも革命家も二通りだ。現行の体制が気に入らず、それを打破するために抵抗して闘う人と、現行の体制とは違う理想の世界を思い描いて、その実現のために尽くす人と。

 敢えて革命者と呼ぶならば、三代目は後者である。反逆もしたし、改革もした。しかしそれはすべて、自身が求める作品創りのために、そうせざるを得なかっただけのことだ。
 師には常に理想の世界があった。だが現実の世界がそれとは違う。だから、現実を変えようとしたし、実際に変えてしまった。決して破壊者ではない。
 歌舞伎界を変えてやる!という決意が先にあったのではなく、師がやりたいことをやるには、変えなくちゃならないことが色々あった、のだ。

 スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で国立研修所出身の新人女方、市川笑也が大役に大抜擢されたという例に始まる、おもだか改革の代名詞、血筋に関わらぬ新人の登用、育成も、そのひとつだ。
 結果、確かにその頃の慣習やしきたりを壊すようなことを実行したけれど、その行動の第一の理由は師が生み出したいものを、思うままに創造してゆくには、それが一番の方策だったからに他ならない。

 人は皆、平等だ。その人の持つ力を差し置いて、一家一門にこだわって利権を分け合う今の世界なんか間違ってる!ぶち破ってやる!

 などと志して革命を闘った訳ではない。インタビューで師がそんな風に語っていたとしても、それは良く出来た、おもだかロマンの宣伝コピーである。
 師はもっと冷静で、クレバーな合理主義者である。
 壮大な夢を見て、それをこの現世で実現させるにはどうすれば良いか、緻密に逆算し、戦略を立てておられた。

 本心を言えば。
 自分の望む演技をしてくれて、求めるイメージを豊かに表現してくれて、お客の呼べる役者なら、それこそ名や血筋に拘らず、どんどん使いたい。そう思っていたはずだ。
 とはいえ、いくら芸がよくても、名のある御曹司たちをスーパー歌舞伎に何か月も拘束することは、難しいことだった。

 例えば、故・十八代目・勘三郎さんのことは三代目は大好きで、その力を認めていらしたし、いつかガチに組んだスーパー歌舞伎を創りたいとも語っていらした。そうは言っても、勘三郎さんは超人気の大看板だったし。たったひと月でも、この二人のスケジュールの擦り合わせは、至難の事だったと思う。だから大歌舞伎でしか会えなかったし、たまに会った時にはお互いに、火花を散らして、いつも以上に熱く燃えて芝居をしていた。
 勘三郎さんはかなり年下だけど、完全に師をライバル視していた。

 勘三郎さんが歌舞伎座で言っていた。確か「紅葉狩」、とかで勘三郎さん演じる若武者が、太刀を構えてのしかかり、鬼を演じる師がエビぞるシーンで、

 「いくら鬼でも普通あんなにエビぞらないよ。チキショウと思うから、こっちも更に深くのしかかって、型なんてもう関係ないよ。殺すか、殺されるかだよ。ハハハ」

 二人で「やり過ぎる」ことが、心底楽しそうだった。ある種の共犯者である。

 ある時、師と勘三郎さん、玉三郎さんが揃って歌舞伎座に出ていた。突然、勘三郎さんが師の楽屋に飛び込んで来て、叫んだという。

 ダメだよ、兄さん!天下の歌舞伎座でパンダ三匹揃えてるのに、何で空席があるんだよ!

 パンダとは客を呼ぶ人気者のこと。客寄せパンダ、という言葉がその頃あった。
 澤瀉屋、太和屋、中村屋で、パンダ三匹だ。皆さん人気絶頂の時代だ。

 だから、僕らは新しい何かをやらなきゃいけないんですよ、新たなことを取り組んで、僕らが生き生きしてないと、古典の良さも薄れてしまうんだよ。と師は持論を語ったという。

 勘三郎さんも、負けじと新たなことに次々とチャレンジなさった。
 愛する歌舞伎を盛り上げたい、もっと見て欲しい、こんなに面白いのに、なぜ人々はもっと熱狂しない!
 芝居に賭けるそういうストレートな熱さが、二人はよく似ていた。

 実は私のメジャーデビュー作は、当時まだ勘九郎と名乗っていた勘三郎さん主演で、セゾン劇場のこけら落とし年に上演された「きらら浮世伝」という作品である。その時の戯曲を舞台美術家の朝倉摂さんが三代目に見せて、それでお呼びがかかったのである。
 だから私が最初に仕事をした歌舞伎俳優は、十八代目・中村勘三郎(当時・勘九郎)さんであり、当時まだ若手で参加していた、中村浩太郎さん(現・扇雀)だった。
 もちろんそこでも多々、学んだし。その素晴らしい人となり、舞台にかける情熱に大いに感化された。だから、師から勘三郎さんの名が出るたびに嬉しくて、いつか、スーパー歌舞伎を、なんて話が出るたびに、その時は何もかも断って、梅原猛先生の助手でゼンゼン構わないから、何としても関わらせて貰うと勝手に決めていた。

 お二人は、あの世でまた、愉快そうに競い合っておられるだろうか。

 最後にご遺体が安置された場所に、まだ弟子たちが育つ前に、女方としてずっと相手役を勤めておられた、福助さん(当時は児太郎)が訪ねて来られて、その顔を見て泣いておられた。この方も後年、忙しくいろんな役目が多くなって、いつまでも三代目と一緒に、という訳にはいかなくなり、自然にコンビ解消となっていた。

 旦那が、ずっと恋人だったのだもの。

 その言葉、静かに眠る師に向かって、深々と頭を下げられた姿に、涙があふれた。

 そこには血筋も家も関係ない、苦楽をともにして作品を創りあげた役者と役者、人と人の絆がある。
外から見れば、血筋だの家の格だの、我々の日常と少しかけ離れた世界が面白そうで、そこに何か答えを探したくなってしまうけれど、役者同士、そんなことに関係なく、案外シンプルに芸と芸で競い合い、分かり合っているものだ。そして、

 血筋が歌い踊るわけじゃないよ。どんな生まれでも誰の子でも、きちんと稽古すれば、芸は身に付く。ただ歌舞伎は奥深いから、時間がかかるんです。生まれた時から、その環境に置かれた御曹司たちには、親の力とともにアドバンテージがある。だから、うちの弟子たちは、その差を埋めて、追い越す努力をし続けなきゃいけない。

 師はそう教えていた。

 ないならば、自分で創る。

 それが猿之助スピリットであり、反逆と改革と見える行為の礎である。これは四代目にも、しかと継承されている。だから、そもそもは三代目の弟子だった私が、四代目とも気持ちを重ねて創作することが今、出来ている。

 単なる反逆者ではないのだ。
 100%の創造活動が、それまでの既成の世界とぶつかる。それだけのこと、よくある話だ。そして表現者であるなら、クリエイターなら、当然、闘志を燃やすところだろう。
 誰に何と言われようと、自分の世界を表現しつくす。
 ただ、その頃歌舞伎界には、そんな世界基準のクリエイターが少なかったら、突出した革命児に見えたのである。

 梅原猛、モーリス・ベジャール、朝倉摂、横尾忠則、三宅一生(スーパー歌舞伎の衣裳を最初に依頼し、毛利臣男氏を紹介された)、加藤和彦、などなど、演劇人スタッフを敢えて外して挙げても、これだけの世界的な創造者たちと親交を深め、認め合い刺激を与え合った。伝統芸能の演者ではなく、現代に生きるクリエイターとして、だ。
 皆々、全身全霊で保守的な世界と闘い抜いて、新たな時代を切り開いた異端児たちだ。

 しかし、そもそも江戸歌舞伎には、そういうクリエイターが大勢いたはずなのだ。お上の眼をかいくぐって、観客の心を掴む新たな見世物を生み出す。そうしなきゃ生き延びることは出来なかった。
 生き延びるための創意工夫、研鑚。
 公的助成なんか一切ない、むしろ差別され、ヤバい奴らだと、常に睨みつけられていた。
 元は少女たちが歌い踊ることが歌舞伎だったのが、風紀を乱すと叱られて、少女、女性が舞台に上がることを禁じられた。次に美少年たちも同じ理由で禁じられ、ついに大人の男性たちだけで、歌舞音曲をやらなくてはならなかった。

 ならば新たな表現を模索する。発想を変えて、新技術を生み出す。実際の女たちより美しい女方という芸を生み出す。お上の叱りを受けないように、江戸で話題になった出来事を、鎌倉時代の話として、うまく誤魔化し物語化する。

 今、歌舞伎界は新作ブームである。
 初音ミクが歌舞伎座に立ち、ルパン三世まで歌舞伎になる。キワモノ担当の私でさえ、マジか!と思う際どい冒険の連続。

 歌舞伎を壊すな!と言う人たちの声も更に大きい。

 しかし、すべて生き延びてゆくための闘いだ。
 歌舞伎は、興行。そこを忘れてはいけない。時に師は、独立独歩の芸術家たちを羨ましがっていた。
 「こっちは興行を成功させなきゃ次がなくなるからね。どんな場合も51パーセント以上の、大衆の支持を得なきゃいけない」

 見取り、といわれる名作古典歌舞伎の切り売り。それで常に満員御礼ならば、いくら役者が新作を創作したいと言っても、
 興行元は、そう簡単に許さないだろう。新作創りには金と時間がべらぼうにかかるのである。しかもそれで当たる保証はない。危うい博打である。それでも、その勝負をかける必要があるぐらい、
 コロナとか、時代の変化とか、様々な要因で、新しいことをやらなくては、今、歌舞伎の存続そのものが危ういのである。しかしそれは伝統の破壊では決してなく、むしろ、そうやって生き残って来た、正しい歌舞伎の伝統に沿った行為なのである。そして、そういう無数のTRY&ERRORから、古典と呼ばれて時代を超えて生き延びる名作が誕生するのである。それが歌舞伎の辿って来た真実の歴史だった。

 師が好んで使っていた言葉。
 「創造する伝統」
 伝統とは創造を積み重ねた歴史の集積である、という意味であろうが、それを押し広げて、伝統を私が創る!それが師の矜持だった。

 哲学者・梅原猛さんと出会って「歌舞伎は面白いけど、物語としてのテーマが古過ぎる」と指摘された。その言葉を得て「ないならば自分で創ろう」と宣言し、梅原先生とともにスーパー歌舞伎を生み出した。

 主君を守るために、我が子の首をちょん切って、主の息子の首と偽って差し出す。それを立派な志、忠義として描いて、天晴れと称える。それが古典歌舞伎の名作だったりするわけで、今の人権社会では、大問題となるテーマである。私が劇団扉座で今、パロディでもなく真剣に、こんな芝居を書いて上演したら、間違いなく袋叩きに遭い、大炎上することだろう。

 江戸時代、お上の弾圧に常におびえつつ、観客にウケるためにどうしたら良いか、その隙間をあの手この手でついて、必死に工夫し、考えて考えて創り続けられたのが歌舞伎である。その作者たちに同情の余地は大いにあるんだけど、確かに、今の時代に通じる話ではないものが多い。
 古典は、そういうものなんだ、という約束の下で鑑賞するべきものだ。(※ それはそれで実に面白いものではある。非人間的な酷い物語に、ついつい泣かされてしまったりして、江戸の作者たちは実にしたたかだ)

 私が関わり、スーパー歌舞伎になった三国志でも、酷い話がある。
 戦国武将・劉備玄徳が逃亡の途中、かつての家臣のあばら家に匿われる。家臣は光栄に思い、何とか主の役に立ちたいと思うが、食べ物もろくにない貧乏暮らしだった。しかし、翌朝、劉備にたくさんの肉のスープが振舞われる。その肉は、実は家臣の妻の肉であった。最愛の妻を殺してスープにして、提供したのだ。
 何と天晴なる、忠義の家臣よ!

 この逸話に触れた時、新三国志は、こういう原作を一旦脇において、かなり思い切ったコンセプト変更をしなきゃ、スーパー歌舞伎として成立しないぞと思った。徹頭徹尾、血で血を洗う男性目線のマッチョな攻防の物語なのである。
 そこで考え、師に提案したのが「劉備玄徳は女だった」という設定だ。荒唐無稽とそしる声もあったし、中国の留学生が、劉備が女とは何事か!と演舞場に猛抗議しにも来た。
 しかし、師は今の時代の物語を、ないところに生み出さなくてはいけない、と考えてスーパー歌舞伎を創り続けていたのだ。
 この無茶な提案に師は喜んで乗ってくれて、おもだか版の三国志が創られた。
 我らが創る三国志の劉備玄徳は、妻を殺してスープにしようとする家臣を、命がけで止めて、優しく諭す人でなくてはならないのである。それは男性の設定でも可能ではあるけれど、美しい歌舞伎の女方が演じた方が、よりその存在や、考え方が際立つだろう。何よりも、誰も見たことのない三国志になる。

 ないならば、自分で創る。

 血筋でない弟子たちを育てたのも、この精神だ。
 スケジュールとか、役の大小とか、キャスティングでは問題が多々生じる。
 大当たりを続けて揺るぎない地位を得た師であっても、興行元のビジネスや、歌舞伎界の慣習の中で、他の家の役者たちを好き放題に使うことは容易にかなわなかった。
 そもそもこの世に、そんなに大勢、歌舞伎の出来る人材もいない。しかし自分の弟子、我が手で生み育てたものならば、思い通りに自由に使える。しかも自分の好みに、無数に作り上げることも理屈上は可能である。

 「出来上がってる御曹司役者はもちろん良いんだけどね。贅沢な買い物だよ」

 そんな風にも言っていた。

 「あんたを我慢して使ってるんだよ。それしか道がないから。だから早く上手くなってくれ!」
 一番厳しいダメ出しの言葉である。おもだかの弟子たちにはこの言葉が一番厳しく響いた。

 こんな俺たちを使ってくれているのだ。他の家では、新作なんかそうそうやらないから、若手が新たな作品に使われる、というチャンスは滅多にない。
 だが、ここでは駆け出しの新人までもが、大きな任務を託されるのだ。
 師匠の夢の実現のために、頑張らなくてはならない。頑張りたい。
 そういう師の、スペシャルな創造活動に、私たち弟子たちは心酔していたのだ。だからこそ、その戦力になりたい!されど道は険しい。自分の力が、役に立っていない、と言われる。その哀しさ。

 重責、苦しみ、背中合わせの希望と絶望。その一方で、日々繰り返されたその真剣勝負の場は、確実に本物の歌舞伎俳優たちを生み育てた。

 私の同志たち、おもだか一門の弟子たちが、今、各方面でどれだけの能力を発揮しているか。
 歌舞伎俳優として、クリエイターとして。
 もはや説明の必要はないだろう。

 作品のみならず、伝統も、人間もクリエイトした。

 師は真のクリエイターであった。


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