我が師に捧ぐ ④ 紫先生のこと

 三代目・猿之助を語る時、その類まれなる芸術的な才能を抜きにしては、まったく的外れなものになる。芸能ゴシップとして、男女関係、家庭争議など、三代目の仕事をよく知らないお茶の間レベルで、歌舞伎俳優としての半生を語っても、それはほぼ無意味で、三代目・猿之助という人物には到底、近付けない。

 例えば、藤間紫先生との絆も、その出会いから波乱万丈の不倫劇として面白おかしく伝えられているけれど、女性で唯一、歌舞伎を演じることが出来ると言われた、天才舞踊家にして、大女優であった紫先生が、三代目の何に、どこに最も魅力を感じていたか。
 そこには男女の情も、もちろんあったであろうが、究極、突き詰めれば、その才能である。と私は考える。
 天才が天才に惚れたのだ。

 「この人は、夢中になって芝居作ってて、裸であることも忘れて、風邪ひいちゃうのよ」

 舞台稽古で、本水を使った大滝の立ち廻りシーンを演じた後、そのやり方にただちに変更の必要を感じた三代目が、濡れた髪もそのままにスタッフに指示を出すため、半裸で客席に降りてくる。
 その後から、母親のように、あるいはボクサーに付き添うセコンドのように、紫先生が、タオルやガウンを抱えて追いかけて来て、説明に必死な三代目のあちこちを一所懸命に拭っている。
 三代目は、ダメ出しに夢中で、先生には一切構わず、好きにさせている。
 そんな紫先生の姿はどこまでも裏を支える黒衣であり、とても日本を代表する舞踊家、女優には見えなかった。

 そうやって夢中で芝居にのめり込んでいる三代目のことが愛しくて仕方ない、と、これは先生自ら、私に語って下さった。「横内さん、ご飯行きましょう」と誘って頂いて、色々な話を聞かせて下さった時だ。
 
 とは言え、必死に何かに打ち込んで、やり遂げる男なら、他にも大勢いる。
 
 百戦錬磨の大女優である。特に癖の強い役を見事に演じた、怪女優だ。

 数々の天才や、ハンサムたちと出会い、浮名だって流してきたザ・女優である。
 理想の男性のタイプは、舘ひろし、だと仰っていた。
 おなかの中に小玉スイカが入ってるよ、と丸々と膨らんだお腹をさすって自虐し笑っていた、当時の三代目とはかなりイメージが違う。軽井沢では、気に入った同じTシャツをずっと着続けて、しかもスイカの汁があちこち飛んででも、全く無頓着だった。それがよく見れば高級ブランド・ミッソーニだったりするのも、御愛嬌だった。
 まるで腕白お坊ちゃまの夏休み。舘ひろし のダンディとは程遠い。
 
 そんな師がひとたび戦闘モードに入り、とことんのめり込んだ果てに生まれる、ダンディよりも心惹かれる、珠玉の作品の輝き。
 藤間紫自身が、最高水準の表現者、芸人である。その光の輝きを見定める眼もまた、一級品である。
 奇跡のような輝きがそこにあるからこそ、自分の女優業を削っても、この人の世話をしたい、走り続けるこの人の、どこまでも伴走者でいたいと先生は願っておられた。

 先生との二人きりの高級懐石デートの〆めは、こんな言葉だった。

 「我儘で大変だと思うけれど、これからもどうか頑張って、良い本を書いてあげてちょうだいね」

 ああ、旦那の為に呼ばれたんだ、俺。紫先生はこうやって、三代目とともに作品作りをしてたんだ。
 しみじみと実感した。

 実は、そんな二人にも別れの危機はあった。
 ある時期、(まだスーパー歌舞伎が誕生する前)三代目の心が、他に移っていたのである。
 しかしそれが永久の別れとはならず、その危機を乗り越えて以来、更に絆が深く結ばれることになった。

 この二人を別れさせず、つなぎ止めたのは、やはりお互いの才能だった。
 紫先生は、三代目の才能の凄さを、女優として、舞踊家として誰よりも正しく評価できる人物であった。しかもそこに女性としての愛情も加わり、優しく励まし、母のように逞しく支えるパワーもお持ちだった。

 正直に言えば、紫先生が、好みのタイプは舘ひろし、だというのと同じぐらい、テレビなど見つつ、この女優良いね、なんていう時の三代目の好みのタイプは、紫先生とは少し違っていたと私は感じている。
 
 しかし何度も言うが、三代目が最も大事にしていたのは、芝居、歌舞伎である。(※人間として、時として、別なものに惹かれることがあったとしても)

 その命がけの仕事を誰よりも、的確に評価してくれる人。それを、全力で愛してくれる人。
 その人のことが、畢竟、唯一無二の大切な存在となることは、必然であった。
 何しろ、天才が自分を、その才能を、100%認めて惚れて、心から愛してくれているのだ。歴代の恋人たちも、皆、師の仕事に拍手を送り、愛していたことだろう。
 でも、その目利きの格、説得力が違い過ぎる。
 自分を好きでいてくれるファンのような女性たちを、芝居の鬼とは言え、より好ましく可愛く思うこともあっただろうけれど、師のすべてがその引力に奪われることはなかった。

 紫先生が、向田邦子さんの小説の舞台化作品に出演された時の事だ。その舞台を見ていた私は、何という事はないワンシーンが、とても胸に響いた。
 セリフは一つもなく、ただ先生演じる孤独の老婆が、出先から家に帰ってくる。そのために舞台袖から歩いて舞台に登場する、それだけのシーンだ。

 この老婆は、哀しいことを抱えている人なのだが、ただ現れる。それだけなのに、先生の姿に何とも言えぬ哀愁が漂い、この女の寂しさが胸に迫って来た。
 観劇後、その感想を告げたら、先生は、
 あら、そこ気付いてくれて嬉しいわ、と微笑まれた。

 「このお婆さんは寂しいのよ、人は寂しいと体に力が入らないでしょう。だから、出る前に、袖で五十回息を吐くの。全身から力が抜けるように。そして背中が小さく小さく見えるようにしたのよ」

 理想の俳優は誰ですか?と聞いたことがある。
 「ロバート・デニーロ、あの人、作品を見るたびに全然違う人になってるでしょ。私はあれを目指してるの」
 
 デニーロが学んだのは、ニューヨークのアクターズスタジオ。アル・パチーノ、マーロン・ブランドなどあまたの名優を世に送り出し、かのマリリン・モンローも人気絶頂のころ一時期、仕事を休んで演技の基礎を学びに通った、名門演劇学校である。
 この学校のテーマは、徹底したリアリズムだ。大げさな身振り手振り、前時代的な説明的表現を否定して、人間の内面から湧き出す自然な感情から生まれる表現を、何よりも大切して追求するスタイルである。
 ロシアの演出家、スタニスラフスキーが提唱した、リアリズム理論に基づくメソッドで俳優たちは自然な演技を学ぶ。
 ここでは型にはまった演技が最も避けられ、NGなのである。

 その教育の完成形、最高傑作がデニーロなわけだが、藤間紫は幼いころから日本舞踊で、徹底的に型を学び習得した人である。その人が一方で女優として、型を否定した自然な演技を理想とし、目指していたのだから、恐ろしくハイブリッドな話である。しかも憧れが女優じゃないのも痛快であり、先生の芸の大きさを物語る。
 実際、素人よりも、ベテランの俳優さんたちに、紫先生の演技のファンは多かったと思う。
 
 情が溢れている上に、形が決まり、見せ方を、よくご存じだから、かなわない。

 とある大女優が、ため息を付きながら、おっしゃっていた。

 三代目・猿之助にとっても、その才能がかけがえなく大事だった。

 「女方の芝居は紫さんに教わって下さい」

 一門の女方たちは、よく師に命じられて、本稽古を早退して、紫先生の個人指導を受けていた。
 そこで先生は、型を教えるのではない。ましてや日舞のにの字もない。
 新劇の稽古のように、台本を読み解くところから始め、行間を探り、その人物の裏の心情まで門弟と共に探り考えつつ、セリフの読み方、ニュアンスなどを細かく指導しておられた。
 スーパー歌舞伎全盛期は、埼玉の蒲生の巨大倉庫を借りて稽古が行われていた。かなりの郊外である。若き日の笑也さんなどは、そこで稽古をした後に、東京にいる紫先生の許まで日比谷線で駆け戻って、夜更けまで細かな稽古を付けて貰っていた。

 そんな稽古の後、紫先生が私を呼んで「かぐやのあのシーンのセリフ、ちょっと矛盾がないかしら?」などと指摘、ダメだしされることもあった。弟子たちと一緒に台本を読み込んでみて、気付かれることもあるのだった。

 「気持ちがブレてる気がする」

 理詰めの三代目に対して、生身の役者として感じ取った、情や感性に根拠のあるダメだしで、女方の芝居には、なるほど、そういう繊細な気遣いが必要だよな、と気付かされることも多々あった。
 何しろ、当代一の女優なのでその気づきが、鋭く、深い。

 笑也、春猿(現・河合雪之丞)、笑三郎、他にも多数、おもだか一門は素晴らしい女方を生んだ。少なくとも、私の執筆したスーパー歌舞伎は、これら、おもだかの宝たる若き女方たちを、いかに活躍させるかという課題を大事にしてストーリーを組み立てている。当時、こんなに若く魅力的な女方が、しかもキャラクターがそれぞれに粒だって揃っている一座はなかった。よそにはない強力なセールスポイントだと、私は確信していた。
 そんな才能が豊かに育ったのは、その裏に紫先生の大きな力があったからである。

 二人の絆を理解しようと思ったら、その二人ともがいかに優れたクリエイター、表現者であったかを理解しないと、その本質には届かないと思う。

 ジョン・レノンと、オノ・ヨーコのように。
 二人は夢に向かって共闘する熱き同志であり、男女の情以上の何かで結ばれた、ソウルメイトだった。それがジョンたちのニューヨークスタイルではなく、極めて日本的なスタイルで展開されたパターンだった。
 今、藤間紫という人がいかに凄い芸を持っていた天才だったか、知る人も少なくなった。
 ヨーコも、この人の実態がよく知られていない頃、ジョンをたぶらかした東洋の魔女のようにそしられていた時代がある。でもジョンの才能を、その人柄と共に深く理解し愛す力を持つ、稀有な存在だった、ジョンに必要な人だったと、やがてビートルズファンも理解していったのである。
 
 紫先生の評価を、単なる不倫相手に落とし込めてはいけない。
 修行のために預けられた、舞踊の大師匠・ご宗家の奥様。十六歳年上の、その人と、恩人を裏切る恋に溺れて、のちに夫婦となった。
 雑にまとめれば、その通りなのであろうが、
 その奥様が何者であったか。その奥様の中に、どんなパワーが秘められていたか、世の中のほとんどの人はよく知らず、ワイドショーサイズで、理解しようとしてしまう。違うんだ、これはもはや神話みたいな話なんだよ、と私は言いたい。
 
 紫先生のご葬儀で、いよいよ棺に蓋をするという、最後のお別れの間際。
 三代目はその棺の傍らに一人座り込んで、人目をはばかることなく、子供のように大声をあげて泣き続けた。それは大の男がこんなに泣くかね、という大号泣であった。
 その泣き声が、お堂中に響いていた。

 そこには誰も近づけなかった。皆、ただ遠巻きに、見守るばかりであった。
 
 実は、私は、師から「私の人生を書いてください、紫さんとのことも含めて」と命を受けていた。半引退生活に入られて、少し経った頃だ。
 芝居ではなく、小説的な書き物で、どこかの雑誌に連載するとか、本にするとか、そういうイメージだと言われた。
 正式に紫先生と籍を入れられ、軽井沢の別荘に大きな稽古場、食堂、資料館、などなど整え、本格的にそこを本拠地とされて、サアこれから本気で、おもだか王国を完成させるぞ、と、お二人で意気込んでおられた矢先の師の病だった。
 何か残したい、という気持ちが師の中でも強くなられていたと思う。

 そして紫先生もまた、深刻な病に冒されはじめていた。

 しかし本格的な自伝となれば、多少踏み入った、隠されたプライベートも書かなくてはならないだろう。「年鑑おもだか」という、ファンクラブの会報冊子というか、かなり分厚い本にはこと細かな日々の記録までがすでに書き記されている。
 良いことはもう皆、知ってる。

 「一冊の本となったら、良いことばかり書くわけにはいかいなかもしれませんが」
 と申し上げたら「もちろんそれでよい。清濁もすべて書くつもりで」と仰られた。

 それで、いろんな方に取材をさせて頂いた。
 紫先生が、御病気になられて入院した、その病室でもインタビューさせて頂いた。
 先生がなくなる数日前まで、最後の病室で、私はお話をさせて頂いている。

 結論から言えば、どんなに探りを入れても紫先生ご自身は師との過去について「良いお話、美しい思い出」しか語られなかった。
 結構、不躾に踏み込んで、いろいろと尋ねても、見事に可愛く、惚けられていた。
 まさに女優であった。
 それが命がけのメッセージだったと思う。
 力を尽くして愛し抜かれたのだ。最後のその瞬間まで。

 ただ私は、昔を知る人などにもお会いして、お話を聞いて、本来私が知らなくて良いはずのことまで知ってしまった。
 先に書いた、お二人にも、別れの危機があった、というようなことがそれである。

 まあ、ここら辺のことは、まだ書けないことも多々あり、うっかり誰かを悲しませないようにしたいとも思うので、今後、ゆっくり考えながら、師と紫先生の凄さと、素晴らしさを伝える為に、今、綴れる部分だけ綴ってゆこうと思う。

 言えることは、
 確かに、お二人は、強く、スペシャルな絆で結ばれていた、と言うことだ。

 それは他の誰かでは、決して代わりが果たせないことだった。
 三代目・猿之助と、本物の舞踊家そして女優である藤間紫でなくてはならぬことだった。
 そして、その絆の真ん中には、常に揺らぐことなく、歌舞伎が、芝居が、芸術があった。
 
 この男女は、芸術の神が引き合わせた、ソウルメイトであった、と思う。


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