ソウルの北島マヤ 続編
本日23日土曜日は、神奈川県教育委員会主催の高校生のためのワークショップ。
横浜の平沼高校で、あちこちから70人の高校生が集まってきた。
このワークショップのために書き下ろした新作「ワークショップ青春編」を初使用。
こちらも初めてのものなので、いつになく真剣になり神経を使った。
時間配分に問題があったけど、見ず知らずの高校生同士をこの場で出会わせて絡ませたりしたワリには、結構、良い線まで行ったとは思う。参加者も徐々に温まり、一応の一体感が生まれていたし。
これは今後も修正を加えつつ、あと都合3回、県下を巡って開催されることになっている。
ここらのことはたぶん、里沙が写真入りで紹介してくれるだろう。
参加してくれた若者達、ありがとうね。
ぜひ『トラオ』に遊びに来て下さい!
さて、ガラスの仮面inソウル の続きを……
『お伽の棺』は主人公の善治と異人のたずは、ずっと伴と杉山で演じてきたのである。
今回もコレをヤルなら、このコンビでという気持ちもあった。
ただ、演劇祭参加の決定が遅れ、その時点ですでに伴のスケジュールがないことが分かったのだった。
参加の打診が来た時には、それじゃ『ドリル魂』で行こうじゃないか、というノリもあったし。
結局、ドリルなんか持って行ったら、有限会社扉座が3回ぐらい倒産するという予測が立ったために断念したが。
伴が無理なら、
いっそ新しいモノに作り替えよう。
と決定した。
(善治役などの新キャスト発表はまた後日ね)
そして考えたのが、雪の中で倒れていた異人の女を、本当の異国人に演じて貰うというアイデアだったのだ。
そもそも異人なのに、日本語を流暢に語っているという不思議な設定ではあった。
だから本物の異人というのは、作品としてはかなり理に適っているのである。
で、さっそく、我らが扉座ソウル支部・支部長・金文光を通じて、韓国の演劇協会に相談したところ、面白がってくれたのだ。
そしてネットを通じて、全国に募集をかけてくれた。
そこに応募した来たのが、プロアマ交えて80人の女優たちであったのである。
韓国のロングランパォーマンス「NANTA」のメンバーとか、民族服モデルとか、すでに活躍している人たちも大勢居た。
今回、全国演劇祭が開かれる仁川(毎年いろんな都市の持ち回りで開かれるらしい)の演劇人達も、この反響に驚いていた。もちろん、我々もびっくりした。
まあ地元推薦の人も含めて15、6人集まれば上出来かなと思っていたのだ。
だから、予め台本なんかも渡さないことにしていた。
がっちり作り込んで来てもらうんじゃなく、
その場で渡して、せーので開始し、こちらからリクエストを出したりして、何度か繰り返して貰うことで、コラボレーション力みたいなものも、見させて貰おうと思っていたのだ。
ところがそんな余裕はなくなった。
とにかく、いきなり台本の一部を渡し、思うままに即興的に演じて下さい、と、ちょっと乱暴なものになってしまったのだった。
まあ、それでも、ちゃんと相手を見ることは出来る自信は、私にはあったけど。
参加者には、ちと気の毒なものではあった。
でも、そんな中でも、金君が立ち上げてくれた、『お伽の棺』サイトに掲載された情報を読み取って、
異人の女のイメージを掴み、簡単な衣裳など用意してきた参加者が数名いた。
韓国一の実力劇団のメンバーなども参加していて、そういうところの女優はやはり、普段着ではなく、それなりの支度をしていた。
だが、その中でも、特に異彩を放っていたのが、
ソウルにある、芸術総合大学の演劇科を今年卒業見込みだという、
キム・ナムヒ
であった。
この大学、芸術部門では最難関の学校で、演劇科は毎年全国から10人しかとらないのだという。
入っただけで、凄いと言われる学校なのだそうだ。
しかしそれは後で聞いたこと。
ジーンズとか、中にはミニスカートのままで、セリフを読み出す参加者の中で、
白い民族衣装の上に、米を入れる袋を自分で裂いた、ボロボロのチャンチャンコを羽織り、
しかも頭は不思議な形に結い上げている。
これも後で聞けば、全部、数日前から準備したものなのだそうだ。
米の袋は、オリジナルの発想で、頭は、わざわざ美容院に行って、韓国の伝統的な女性のイメージでセットして貰ったという。
ナムヒは、
そんな格好で、オーディションの間、他の誰とも目を合わさず、自分の番が来るまで、じーっと虚空を睨み付けていた。
なんというか、その佇まいには鬼気迫るモノがあった。
セリフは、全員、当日渡しである。
当然のこと、この話の全貌なんか誰も分かってはいない。
唯一の手がかりは、金君が載せた、荒筋ぐらいのことである。
なのに、彼女はすでに、
異人の女・たず になっていたのである。
もちろん、米袋や、髪の結い上げが正しい解釈かどうか、そこには疑問もある。
でも、少なくとも、彼女は、彼女のイメージした
『お伽の棺』の住人になりきっていたのだ。
そしてセリフを演じた。
それは短時間で覚えきれるものではない。何もない素舞台でシートを手に持っての即興的な演技だ。
だが、そこにはすでに肉体化された、言葉があった。
私は韓国語はまったく分からないけれど、ナムヒの言葉の一つ一つに、彩りがあることがはっきりと感じられた。
何より、そこに噴き出すパッションは、他の参加者の姿の美しさや、優雅なテクニックを吹き消してしまう、激しさに満ちていた。
役を演じるのではなく、役になっちゃう。
そういうタイプの演じ手が、この世にはいる。
憑依型というか、没頭型というか。
それに対しては賛否両論ある。
演じる者は、熱く演じつつも、少し離れたところから、自分をみつめる、もう一つの冷静な目を持ち続けなくてはいけない。
たとえばそれが、世阿弥が花伝書で語った演技の奥義、
「離見の見」である。
猿之助さんがよくこの言葉を使う。
名優はいつも、もう一人の自分を客席に座らせていると。
少なくとも、彼女には、そんな目はなかった。
その目には、他の人の演技も、まったく入らなかったという。
私の世界を誰にも邪魔されたくない、と思ったと言っていた。
実際、雪が積もる善治の里の風景しか、見えてない、そんな佇まいであった。
実技の後、作品についての簡単な質疑応答があったのだが、
彼女は、ちょっと興奮気味だった。
何を言ってるかよく分からない……
途中で、通訳してた金君も頭を抱えた。
後で聞くと、自分でもワケが分からなくなったのだという。この作品に対して、言いたいことがありすぎた、と。
ちょっと危ないヤツなんじゃないか……
実技のオーディションのあとで、私が率直に思ったことだった。
でも、そのたった2分ほどの演技は、67人の演技すべてを見終えた後でも、ことさら印象深く残り続けた。
もう一回、今度は、演技なしの状態で会ってみたい。
そう私は思った。
この続きは また今度