釜山にいます
昨日、韓国の新幹線KTXで、釜山に入りました。
画像は ごぶもりブログに 出ています。
ドリーム・パレスから一転して、極めて高級なリゾートホテルです。LANもちゃんとあります。
釜山のホテルはスゴイからと言われていましたが、期待が裏切られることが怖くて、
信用していない我々でした。
広くて清潔で、ふかふかベッドで……
あまりに変わりすぎて、落ち着かないぐらいです。
こんなとこにいたら、ダメになるんじゃないか。と不安にすらなります。
ドリーム・パレス泊の方が、芝居が良かったと言われないようにしなくては……
ここは今後の我々の方向を定める大事な場所になることでしょう。ドリーム・パレスか、コンドミニアムか……
仁川の3日目は、一番良かったと思います。オーディションを受けに来てくれた女優とか、仁川の市立劇団の人たちなんかも来てくれたりして、演劇人率がとても高かった。
そうそう3回見に来てくれた青年ですが、実は、青年ではなく私と同じ歳で(青年でもいいか)
ナムヒの大学の教授でした。
開演前に、ファンですとか言って台本を差し出すので、サインなんかしたのですが、
そんなにナムヒに惚れてるの?て聞いたら、ナムヒもよく知らず(舞台美術)、本気で芝居が気に入ってくれたようでした。
ただし、ついに満席になることもなく(増えてはいましたが)、カーテンコールに呼び出されることもありませんでした。
まあ、それだけが評価ではないので、良い芝居をやって、それをしっかり受け止めてくる人がいれば、それでいいんだけど、
きちんとした批評が出る気配もないし、というかマスコミ関係者という人に、仁川では一人も会わなかったし。
ちょっと寂しさの漂う、初海外公演であったことは事実であります。(偽っても仕方ないから、正直に書くね)
芝居を終えて、ジョン先生の教え子さん(未来の舞台美術家たち)に手伝って貰ってパラシをし、
その後、
街の民芸酒場に移動して、仁川の打ち上げをしました。
通訳のボランティアをしてくれた女性ふたり(リュウリンさんとユーさん)と、我々と。
本当は、もっと多くの仁川の人たちと杯を交わしたかったのだけど、
皆、それぞれの演劇活動を抱えつつ、一方でこの演劇祭の運営に携わっていて、本当に余裕がないのです。
それでも、次の劇団の仕込み(またも徹夜コース)の合間を縫って、劇場管理のチェさんと、運営本部の石坂さん(お名前失念)が、駆け付けてくれました。
石坂さんは、元劇団員の石坂史朗にそっくりな俳優さんで、チェさんは、演出助手の則岡さんにそっくりな、地元劇団の代表者です。
特にチェさんは、前日の地獄の仕込みに全面的に協力をしてくれました。
舞台監督の池田さんと、顔を見れば「崔さん!」「池田!」と叫び合う仲です。
崔さんが、
「我々の力不足で不便が多々あったと思うけど、素晴らしい舞台を見せてくれてありがとう」
と宴会の最後に言ってくれた時は、かなりジーンと来ました。
文化会館の稽古場で通し稽古をしているのを、この崔が覗きに来てくれて、
終わるなり、
「カンドン!」と叫んで拍手してくれたのでした。
カンドンというのは感動という意味です。
それは、
休日だけ家族連れで賑わう山の公園の、片隅に建つ、古い文化会館の稽古場で、
着いてから三日間、あんまり人に会うこともなく、淡々と自分たちの稽古をしていた我々が、
初めて聞いた、異国人の感想でした。
その一言が、どんなに元気をくれたか分かりません。
今さら、評価なんかイチイチ気にしゃしないのですが、
それでも異国で、しかもかなり活気に欠けた場所で、
昭和のラブホテルなんかに寝泊まりしていたら、
誰でも寂しくなろうというものです。
芝居で分かり合う、絆を結ぶ……
そこに希望が見えた一瞬でした。
てっきり、私は小屋の技術者の人だと思っていたのが、実は劇団の主宰者で、このフェスティバル中、劇場管理の係りになっていたのだと知ったのは、もう最後の方でした。
終わってみれば、楽しい日々でした。
いろいろ悪口も言いましたけど、それを愉快に思える結果になったと思います。
何よりも、演劇人同士、言葉を越えて分かり合える部分は多いわけで、
かなりの部分は、予算さえあればクリア出来たことなのです。それがないなかで、どうするか、それは我々にとっても常に重大なテーマで、
事情は分かっているのです。
演劇人はどこも辛いんじゃ。
でもそれを越える、温かい気持ちと誠実さが溢れていた。そこに心から感謝したいと思います。
ボランティアの通訳お二人も、とっても頑張ってくれました。慣れない演劇界の会話の通訳は大変だったと思います。
カムサハムニダ。