札幌とか

 喫茶店の
 町田のノイズは、まだジョルナの中にあるそうです。

 岡森君に指摘されました。
 言われて、ぐおーっと、懐かしさが増しました。

 ジョルナでした。その名も忘れておりました。
 今度、厚木行きの時、途中下車して訪ねてみようか。

 懐かしいと言えば、札幌でした。
 2泊三日で、札幌に行って参りました。

 今年、久しぶりに、札幌で公演があります。
 んで、我々を招聘して下さる、演劇鑑賞会の方々に、ご挨拶と、作品の解説を、みたいな催しであります。

 扉座としては、16年ぶり。

 なんだそうですよ。
 93年『夜曲』の全国ツアーが最後だったらしい。
 六角精児 のラスト・ツトムであった。

 なので、鑑賞会の会員の大半が、扉座を見たことがない、みたいな由々しき状況なのであった。

 浦島太郎 というヤツですね。

 我々はかなり若い時期から、ひたすら旅公演をしてきたのだけど、
 その頃、劇団が立て続けの、しかもかなり過酷な旅公演に息切れして、
 解散覚悟で、旅公演から撤退して、しばし東京に引きこもり、自分らを見つめ直そうということになり、活動方向を変換した時期であった。

 で、
 だらだらと、見詰めている間に、
 こんなに月日が経ってしまった。
 しかも明快な解答にも辿り着くこともなく。
 結局、半引きこもりで、たまーに発作的に旅にも出たりして、
 活動はだらだらと続いたのだった。

 一方その間、鑑賞会も、当然のことながら行く人来る人、あり。
 16年前とは、大いに様子も異なり、
 我々は、改めて新人として、ご挨拶をする格好になったわけである。

 なので、だらだら劇団ではあるが、気持ちを入れ直し、
 シャキリとした、新鋭のふりをして。

 皆さんで、ぜひ盛り上げて下さいとお願いして来た。

 でも、
 そんななかにも、初札幌上陸の21年前を知っている人もケッコウいて、
 話すウチに、さまざまな思い出が甦った。

 初旅だった。それも 夜曲 で。
 なんと88年のこと。善人会議と名乗っていた時代だ。
 まあ、初期の代表作ですからね。
 アレは。

 もちろん、六角のツトムです。
 今は彼、マモル ですが。
 鑑識になる前は、放火魔だったんです。

 その21年前、
 ほとんどのメンバーが初札幌で、舞い上がった。
 で、今も伝説に残る、

 男子全員で仕込みの初日の後に ススキノ〇番地に繰り出し、 たちまち怪しいバーのぼったくりに遭った事件が起きたのだった。

 もっともボッタクといっても、
 40歳から50歳ぐらいの厚化粧のオバチャンしかいない、限りなく薄暗い
 お触りバーというか、嫌々触られバー 的な
 お店で、一人あたま、20分ビール一杯で3千円程度、をとられたというだけで、
 今思えば、伝説としては、かなりショボイ話なんだけど。
  
 まあ皆、20台半ばの頃ですからなあ。
 それでも、怒りと涙の、大事件であったのです。

 もちろん、怒りと涙も乗り越えて、
 芝居もちゃんとやりました。

 今はないけど、その時、札幌に出来た、札幌本多劇場の開場の頃でした。
 で、そこで特別公演として、夜曲は上演されたのです。

 下北沢の本多劇場から、小劇場の若手代表として、送り込まれたのですから、責任も重大でありました。
 でも、その責任は果たし、
 公演は熱く盛り上がりました。

 我々が帰るときには、けっこうな数の若者たちが、わざわざ空港まで見送りに来てくれました。
 ちょっとした、善人会議ブームが起きたのです。

 でそこから、毎年のように、劇団は札幌に呼ばれるようになったのでした。
 
 その時の札幌本多の公演を、当時札幌で学生だった『相棒』のプロデューサーが見てると、聞いたことがあります。
 
 とまあ、
 そんな思いで深い場所に久々に、6月からの 百鬼丸 が行くのです。

 崇史 でさえ、その後ですからね。劇団に入ってきたのは。
 今度は何が起こるか。
 楽しみです。

 まさか、
 またみんなでボッタクられることはないと思います。
 


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