文化予算について、申し上げる
民主党の進める、無駄の洗い直しは大いに賛同するところです。
先日起きた、新国立劇場の問題も、芸術とは馴染まない、天下り官僚が権力を奮って、芸術家サイドの意見を押しつぶしていたのが、原因と言っても過言ではありません。
私はそこの理事だった永井愛さんから話を聞いて、その憤りに賛同し、運営のあり方に対する異議を唱える署名の発起人にも名を連ねたワケですが、
あの件は、結局うやむやで終わってしまいました。
そして、この件に関わった者たちは、今後、劇場からは排斥するようにと暗に指令が出たとか、出ないとか。
でも、この政権交代で、根本から見直すチャンスが出来た。
そんな人たちを食わせるために、多額の給料も出ていたわけで、邪魔だし、無駄な金は取っているしと、二重の無駄だったと言ってもよい。
なので、是非しっかりやって下さい、です。
ただ、ここでもう一つ問題が生じていて、それは、今の事業見直しの流れの中で、文化予算も多大に削減されそうだと言うことです。
今、劇作家協会内、で、危機感を募らせ、文化の、ことに我々の関わる演劇の存在意義を訴えなければと、焦っています。
扉座にとっても、大きな問題です。
たとえば今回の公演も、ご承知の通り、文化庁からの助成金を受けて、製作しています。
決して十分とは言えないけど、扉座では新人であっても、出演料を払い続けています。
しかし現実的には、この規模の公演で、多くの出演者に、ギャランティを払うのは困難です。
それが出来てきたのは、この助成金があったからです。
欧米に比べたら、まだ少ないという批判もありますが、徐々にその規模の拡大していて、
我々としては、とても助かっていました。
仕上がりについては、賛否両論ありましょうけど、
地方に呼ばれて公演したり、劇団を超えて、上演して頂くような作品を生むことが出来たのも、
この支えがあったからと言えます。
助成金がなければ、このような継続は不可能だっだろうし、劇団があったからこそ、生み出せた作品も多々あります。
また、
扉座は、多くの使える俳優とスタッフを育てていると、自負していますけど、それが出来たのも、このお陰です。
だから我々としても、ただ自分たちのやりたいことだけを追求するのではなく、
教育のワークショップに関わったり、児童劇を作ったりして、社会貢献に勤めるように努力してきました。
そのために、エデュケーション部まで設立しました。
それは、欧米で、公的な助成を受けている劇団は皆、エデュケーション部を持ち、社会貢献に勤めているという話を聞いたからです。
仕分け人のなかには、
文化は、行政がタッチすることではない、という意見を持つ人もいるようです。
確かに
助成金がなくても、芝居は続きます。
商業演劇は、そこで利益まで出しているのですから。
でも、そのために、どうやって芝居を作らねばならないか。
多くの商業演劇にも関わってきた、私には、よく分かります。
私は人気者たちが出演する、メジャーな、大舞台も大好きです。
しかし、そこで発揮される才能には、どうしても限りがあることも痛感しています。
大舞台だからこそ生み出せた、スーパー歌舞伎のような作品もあるけど、自由に活動できた、この劇団がなければ、
「ホテルカリフォルニア」とか「ドリル魂」なんて、独自の芝居は生まれなかったでしょう。
そんなもの、いらんのだ、スーパー歌舞伎や、ジャニーズ演劇だけでよし、と言われたら、もう言い返す気持ちも起きませんが。
何度も言うけど、僕はそれらの舞台を深く愛して来たし、これからもやるつもりだけど、もしそれだけになったら、いけないと思うのです。
少なくとも、青春時代に演劇の虜となり、以来、ずっと演劇と付き合ってきた私にとって
芝居は、単なるビジネスではなく、もっととてつもなく大きなものです。
作ることも、観ることも。
その力は、たとえメジャーなものでなくても、人の一生に大きく作用するものだと思うし、そうありたいと常に願っています。
メジャーなスーパー歌舞伎の、猿之助さんがよく仰っていましたが、
政治経済は、人が作るが
文化芸能は、その人を作る。
のだと思います。
だとすれば、国として、そこに力を注ぐのは、当然のことではないでしょうか。
今、教育も行き詰まっています。私たちも教育現場に呼ばれて、演劇に何が出来るか、教育現場の方たちと一緒になってチャレンジをしています。
つい先日も、稽古を休みにして、神奈川の高校へ演劇授業をしにいきました。
そんな時代に、演劇を殺す方向にカジをとることは、愚かな行為です。
むしろここで、文化予算はどーんと増やす。
それそこが、友愛なのではないでしょうか。
