歌舞伎のタノシミカタ と、26年前の自作

 市川笑三郎さんと、歌舞伎のタノシミカタ という舞台をやる。

 二部構成で、一部は、猿之助の知識と技を正しく継ぐ、世界一の歌舞伎教授、と私は思っている、笑三郎先生による、

 笑っているうちに歌舞伎通になれる、

 歌舞伎講座。
 コレ、ホントに見事にして、面白いです。
 ハーバードの何とか先生の哲学授業に劣らぬ、行き届き具合でな。

 二部は、一般のオーディションで選ばれた人々と、歌舞伎役者が融合して、
 ひとつの舞台を創る、歌舞伎パフォーマンスだ。
 講座を受けた後で、これを見ると、歌舞伎とは何か、より深く楽しく、理解して頂けると思う。

 そのなかで、笑三郎さんには、
 NHK の芸能花舞台 でも放送され、大反響だったという、
 
 亡き藤間紫先生指導による  
 
 舞踊劇、狐火 をフル装備で演じて頂き、

 プロのスゴサを見せつけて貰う。
 ここで人々は、芸の深さを知る仕組み。

 この土日は、その稽古のため、扉座座員とともに、千葉の美浜まで行って来た。
 今、笑三郎さんは、大阪で公演中なので
 
 一門の若手
 笑野さん、猿紫さんが、芸の指導に当たってくれている。
 否応なく、市民と共に、歌舞伎をならい覚えることになる扉座たち。
 
 このあと来月には、歌舞伎ゼミもあるし、
 扉座は最近、歌舞伎漬け である。

 扉座の新鋭ゴリも、毎日、付け打ちをやらされて、だんだん上手くなってきた。
 この調子で習得すれば、バイトができますよ。
 と笑野さんに言われていた。

 そんなバイトもあるらしい。

 さてそんな一方
 26年前にわたしが書いて、当時、善人会議といっていた劇団が、まだ三丁目にあった頃のタイニイアリス、にて上演した
 
 ノータリン・ベイビーズ・ノーリターン

 という作品を上演するという企画があり、ある意味、恐る恐る、見に行った私であった。
 企画者にして、演出は、花組芝居の幹部・水下きよし氏。座員の川西佑佳も出して貰っていた。

 水下氏は、初演の舞台を見ている、千人弱の観客のひとりであったらしい。
 今となっては、知る人もそういないだろう、作品。

 忌野清志郎が消えた時、語ったこともある、RCサクセションの音楽が順繰りに聞こえてくる中、若者二人が車に乗って、果てしなく逃走してゆく、という
 いわゆるひとつの、ロード演劇である。

 ロードムービーの演劇版を狙いました、みたいな。

 26年経って、ホントにホントに久しぶりに見て、

 というのも、今私の手元にこの台本はなく、ビデオもなく、まったく振り返る機会もなかったから、
 ふいにタイムカプセルを開けられ、かつての所持品を見せられた、ような感じ であった。
 
 私自身、まったくその中味も忘れていた。
 見ている最中から、これは水下氏が、台本に手を入れた改訂版だろうと、思いこんだほどだ。

 んが、ほぼ台本通りであるとのこと。
 軽いショックであった。
 拙いのは、仕方ないとしても、基本的に、捕らえようとしている世界が、今の私とは、あまりに違いすぎていて

 これホントに、私の作品なのですか。

 と誰かに聞きたくなったのだった。
 終わったあとで、いろいろ話すうち、ああそうだった、そうだった、と。
 記憶も蘇ってきた。

 そこに至って、ようやくノスタルジーにも浸ったのだが、いささか冷や汗ものの、体験であった。

 
 というのもね、
 思い出せば思い出すほど
 当時の己の青さが、ムズいのだ。

 見た映画、読んだ本、好きな言葉、当時の演劇状況に対する思い、
 そういうものが、丸裸のようにして、書き付けられている。
 青二才の演劇青年。

 その上、もろに人から影響されつつも、それを何とか新しくしようともがいている。
 真似しつつ、新しがる。
 その大いなる矛盾。

 さすがにこの時期では、もう つかこうへい の真似は脱しているが、それより実は、赤面物の、借り物と背伸びの言葉の数々。
 たぶん清水邦夫とか、ニューシネマ的な何かたちとか。

 その姿は、恥ずかしい青春として、愛しい面もあるものの、ザンネンながら他人事ではないために、楽しむよりも、ドキドキしてきたわたしであった。
 
 若き日のラブレター、しかも詩人気取り、みたいな。

 あの頃、わたしはどこに向かおうとしていたんだろうねえ。
 と、あの頃の、わたしに問いたい。

 
 
 
 

  
 

 
 
 

 
 


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