サンデル先生 どうですか
原発の事故現場から、撤退は許さない。
と言うことは、我々に死ねと言うことですか。
2004年、鉄腕アトムが本当に生まれていれば良かったんだがな。
HONDA の asimo が、壊れたビルの何階かにガレキの山をかいくぐり、水道ホースを担いで行って、原子炉プールってヤツに、突っ込んで来るまで、
あと何十年かかかるだろう。
人間がやるしかない。
でもそれが、アメリカ軍の特殊部隊とかが行くんじゃ、何か違うだろうな。この国で作って、この国で使ってた、施設なんだから。
やっぱり同胞の中の、誰かが行くしかない。
これが王様の国ならば、勇者よ出でよ、なんて言って、見込みがありそうな誰かに白羽の矢が当たり、行ってこい、なんてことになるのだろう。
古くは、ヤマトタケル とかな。
難敵・クマソ制圧とかさ。
やり遂げれば、英雄となり伝説に残る仕事。
まさに草薙の剣で、燃え狂う炎を消した伝説もある。
あれなんかさしずめ、古代の原子炉冷却だ。
だがこの民主主義の世の中では、ヤマトタケルは生まれない。
とはいえ実は、この任務に、草薙の剣 なんかいらないのだ。
ただ、ホースの端を担いでいって、プールに突っ込んでくればいい。
ただし、放射線を多量に浴びる。
この任務だけは絶対にごめんです、というのは当然の感情だ。
だから無理強いは出来ない。
でも、実は行ってもいいと思っている人はいると思う。
単にヒーローになりたいのではなく、大きな責任感を抱いて。
それで大勢の人が救えるなら、自分は犠牲になってもいいと。
目下評判がダカ落ちの東電の中にだって、きっといるはず。
でも
王様の世の中じゃないから、それも許されない。この国にカダフィはいない。
皆で決めなきゃいけないんだ。
仕方ないから皆で決めた、放射線を浴びて良い量、なんていうのを慌てて書き換えたりしている。
大きなジレンマ。
たとえば、その過酷な任務で、数人が犠牲になる。一方、それで何十、何百万人を救うことが出来る。
この任務を遂行することは、正義か否か。
ついこないだまで、高級な大学の講義のなかのテーマだった。そこでは、ただ言葉を交わし合えば良かった。
だが
それが今、我々の目の前に、現実の選択として、立ち現れている。
考えても考えても、結論が出ない。
その間にも、時は過ぎ、危機は迫る。
サンデル先生の講義では、言い放しで終わるけど。
ただ
ひとつだけ、思うことがある。
もしその選択が我が身に降りかかって来た時、他者を盾にして、己の保身のみ図ることだけは、よそうと。
進んで犠牲になる勇気は、たぶんワタシにはない。でも、人を押し退けて逃げる真似は、何としても避けねばならぬ。
今年五十歳である。まだ若いつもりではいるけど。
振り返れば、いろんなことを経験してきた。美味しいものも食べたし、楽しいこともしてきた。
少なくとも、子供や若者たちよりも、はるかにたくさん。
そして思えば、戦後復興した、この国の豊かさの恵みをたくさん受けてきた。
今まで飢えたことはないし、病気や怪我の時はちゃんと治療を受けてきた。
贅沢を言えばきりがないけど、世界に目を向けると、これは充分に幸福だったと言わなくちゃいけないことだと思う。
平均年齢が五十に満たないところなんて、普通にあるのだから。
もしその時が来たら、年若き者たちに可能性を、譲る。
若い時には絶対に、思わなかったことだ。
もっともそう言っていても、いざとなったら、浅ましく命乞いをしたり、無様なエゴを晒してしまうかもしれないが
心のどこかに、刻みつけておこうと思う。
あとで死にたくなるような、後悔をせぬために。
「非戦とか甘いこと呑気に言ってるけど、あんた、北朝鮮が攻めてきたらどうするんですか?」
劇作家協会の15周年パーティの席で、噛みついてきた無礼極まる若造の投げかけに、穏やかな微笑みを崩さず。
「ワタシが真っ先に殺されます」
と言った井上ひさし先生の姿が忘れられない。
言葉が、現実を変える。言葉は現実よりも、なおリアルなのだ。
そう信じるのが、物書きだ、ということをその姿は教えて下さっていた気がする。
何よりも、本当に死んでみせそうだった。
生と死が、絵空事でなく、我々に迫ってきた、この一週間であった。
生きている幸運と喜びを、噛みしめた時でもあった。
だが
一方で、死のあり方も、みつめなくてはならぬ時であるのだと思う。
人間として、どう考え、振る舞うのか。
トイレットペーパーが街から消える。
そこに潜むエゴの果てに、生と死を巡る正義の問題も確実に横たわっている。
4百年前、ハムレットはすでに悩んだのだ。
無様な生と、高潔な死と、どちらを選ぶのだ、と。