スタンドの上の方から
サッカーを本格的にやったことがない。
でも見たことは何度かある。カズの頃の代表戦とかも、見たりした。
スタンドの上の方から眺めていると、攻撃にせよ、守備にせよ、いわゆるスペースというのが、折々に生まれるのがわかる。
それを見ているサポーターは、大声で ディフェンス戻れ、と叫んだりするわけだ。
バカ、何してるんだ、って。
しかし、選手の言葉を聞くと、当たり前だけど、グラウンドレベルで 見えるものと、スタンドから見える景色は、まったく別物なのだという。
スタンドから見ているような目を持てれば、誰でも世界一のプレイは出来るんだ、と。
今、震災の地で起きていることを、見ているワタシの視線は、サッカーで言えば、スタンドの上の方である。
熱いサポーターが声を枯らす、ゴール裏でもない。
しかしだからこそ、いろんな出来事がよく見えるし、いろんな思いや言葉も湧き出る。
無責任に、死ぬほど、走れ、なんてことも言える。
まあ、ほとんどの国民はそうだろう。
だから、テレビの合間に流れ続ける、
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも
のCMにまで、いい加減やめてくれ、なんてクレームまで付け始める。
ただ暇なのではない。
安全地帯のスタンド上からは、そういうものの細かい粗までが、よく見えてしまうのだ。
だけど
私たちは、たとえばサッカーにおいても、カズの時代からいろいろと体験して、痛い目もあって、大事なことを学んできた。
それは
闘いの前後はともかく、闘っているその最中は、ひたすら信じて、熱く応援し続けることが大事なのだと。
その瞬間、すべての人が思いをひとつに重ねないと、勝てる試合も勝てなくなるのだと。
あの辛口のセルジオ越後も、勝負の境目では、解説もやめて一心に祈る。
名波さん、気持ちだけ壁に入って
今回のアジアカップの、最後のピンチの時にマイクに入った一言は、彼のサッカーへの愛が溢れた一言だったと思う。
それは甘さではない。
現実を生きるというのはそういうことだ。
批判評論は大事だけど、闘いの最中には、まったくいらない。批判評論が何のために、世の中にあるのかということだ。
それが、大事なモノを破壊してどうする。
評論や批判は、その闘いが始まる前にし尽くして置くべきだ。
もしそれが手遅れなら、もはやすべての闘いをしかと見届けて、終わった時に、始めるしかない。
もちろんそうは言っても言葉や思いは、生まれてくる。安全なスタンドから、いろんな情報を受け取りつつ、見ているのだから。
つい、いろいろ言いたくもなる。
でも、今は祈る時、励ます時、信じる時だ。
だから、思いつく言葉を呑み込むんだ。ゆっくりと語り合い、議論のできる時が来るまでは、冷たい言葉は発さず、しかと胸に刻みつけておくべきだ。
今この時、イデオロギーや信仰を頼りに、自分の信じる正義を語りたくなる、そんな気持ちも分からんじゃないが、それは恥ずべき行為というものだ。
そんな言葉が今、目の前の危機を救うことは、おそらくない。
遠い外国から、何を根拠にしているのか分からないけど、今の惨状はチェルノブイリと同じだなんていう論評が出て、
わあ一大事と慌てたりもする。
でもそれが、極度の興奮をともなって語られる時、ある種の人はなぜかとても生き生きしてきたりして。
平穏な日常で眠っていた、攻撃本能のようなものにスイッチが入るのだろうね。
しかしそういうヒステリー状況が、最も無惨な二次災害を起こすというのは、歴史が証明してきたことで。
前回、関東で起きた大地震では、なぜか罪もない韓国籍の人たちが、なぶり殺されたりしたのだからね。
今だって、浴びた放射線が、伝染すると言い出す人がいる。
そう言って、避けるのかね、原子炉と闘った人たちのことを。彼らと抱き合い、健闘を称え、握手をしに行こうと言うべきだろう。
たとえ伝染するとしてもさ。
今は盲目的に、善意を信じたい。
人が人を救う姿を、美しいと思っていたい。
否定的な言葉は、語りたくない。
でなくては、この闘いを乗り越えられない。
そういう局面もあるということだ。
この先に、嫌でも現実的議論をして、罪を暴き、互いに傷つけ合わなくてはならない時が来るのだから。
頑張れという言葉さえ、チカラを失うこんな時は、
優しいメロディと美しい言葉を聞かせてくれ。
人間は、素晴らしいと思わせてくれ。