気になったことについて
基本的に、舞台の感想や、批評に対しては、黙って承る姿勢でいることに決めている。
こちらは、見せている立場なので、それがどう受け取られても、仕方ないし、誤解や見解の相違が生じることもすべて含めての表現活動である。
だから、ぽぷり さんの書き込みも、基本的には、ああ、そういう考えもあるのだなあ、と思って読んでいたのだけど、
「戦争の話題はとてもデリケートなものです。中途半端な話題づくりのための利用はご遠慮ください」
という一文はどうしても受け入れがたいので、敢えて、反論をします。
但し、ここで私は歴史観や、イデオロギーについて、論じるつもりも用意もありません。
ただ、私の作品を守りたい、それだけです。
まず、確認しておきたいのは、
ぽぷり さんが取り上げている言葉の数々は、
『ドリル魂』という虚構の中の、パクという、私が創作した登場人物が述べているセリフであって、
それは必ずしも、私の、主張でも意見でもないということです。
パクは、韓国に行ったこともないし、韓国語も話せない、
けれど、バクという韓国名を友人達に対して名乗っている
在日2世、もしくは3世です。
その人物が、あの状況の中で、語っている言葉なのです。
バクなら、何というのか。
演劇においては、それが最も大事なことだと私は思っています。
たとえば、ふみひでの母という人物が出てきて、
この人物は、現場作業員のことを差別的な態度で蔑んでいます。
それが社会的に正しいことかどうかは、別問題で、そういう人物が世の中にはいるのです。
だから、私の舞台でも、作業員に対して、差別的な言葉など平気で投げかけます。
もちろん、私は舞台上に現れるすべての事象と言葉に対して責任を持っています。
そして、その折々に、どう表現すべきかをジャッジします。
時には、敢えて、放送出来ない言葉も使うことがあります。
でも、その現象と、根本精神が差別的であるかどうかは別の問題だと思うのです。
差別的な言葉が一切でてこない、差別的な舞台だってこの世にはあるワケですから。
そして言うまでもなく、『ドリル魂』にはドカタ、などの差別的な表現が出てきますが、現場作業員を蔑む舞台では決してありません。
同じように、
私の『ドリル魂』は戦争のことを話題作りのために、中途半端に取り上げている作品ではありません。
ぽぷり さんは、パクが、博士を許さず、ただ糾弾しているような姿勢だけをとっていることを、問題とされていますが、
私のドラマツルギーでは、あの場面で、バクが許すという選択はありません。
許し難きを許さなくては、戦争は終わらないのだ、
というのは、まったくその通りだと思いますが、
分かっていても、収まらない感情というものが、この世にはあると思うのです。
私なら、そうは言わないとしても、
バクならこういうだろう、ということです。
そしてドラマは、ただ単に理想を述べるものではなく、
一方で厳しく現実を見定めなくてはならないと思うのです。
何よりも、パクを生きた人間として、描かなくては、芝居の意味はないですし。
主張を述べるだけならば、芝居にする意味もないのです。
また、
私は、そういう問題について、生の中国や韓国の人たちの声を聞き回ったわけではありません。
ただ、ここ数年、アジア特に中国、韓国の人たちとの共同作業の機会が多くて、否応なく、歴史と今の問題を考えなくてはならないことがありました。
この作品は、それらの体験とも決して無縁ではありません。
実際に、南京虐殺記念館や、独立門の刑場跡なども、現地の友人たちと共に、見学して回りましたし。その時の感想なども、折々にこの日記に書き綴ってきました。国民文化祭では、舞台衣裳に用意されたたった一着の軍服を巡って、それまで極めて友好的だった場所にたちまち、さざ波が立ちました。(2年前の日記に書いてあります)
一言で言えば、
酷い目に遭った人たちは、それを決して忘れはしない。
それが私なりの実感です。
そのことをまずは、深く理解しなくては、我々は問題を乗り越えて先に進めないと私は思っています。
そして、そういうことのすべてを、この作品にはこめたつもりです。
まあ、それが残念ながら、ぽぷりさんに伝わらなかったのは、我々の表現力不足ということもあるのでしょうから。
反省しなくてはいけませんが。
ただ、これも誤解されているなあ、と思うのですが、
無学で、不器用で、でも心優しい バクさんは 博士のことも日本のことも恨んではいるとは言っていないのです。
彼が言うのは、ただ一言、
「何も言わずに消えてくれ……」
と頼んでいるだけです。
愚かで寂しい、亡霊に対して。
そして、肝心なのは、というか、ぽぷりさんに、本当に聞いて頂きたかったのは、
その後に、バクさんが、一人で語った言葉でした。
もう終わって、跡形もなく消えた芝居ですから、
今更、ここには書きませんけど。
あの言葉を、届けることが出来なかったのは、無念です。
それだけで、大失敗の舞台をお見せしたも同然で、まことに申し訳ない限りです。
今度は、あの言葉が、届くように、したいです。
建築ショーは、9・11
の、あのグラウンドゼロで
我々は何をやるべきか、ということをうつらうつらと考えていた時に、思い浮かんだイメージを、私なりに実現してきたものです。
私が思い浮かべたのは、新しいバベルの塔の建設でした。
バラバラの言葉を話す人たちがチカラを合わせて、もう一度、一つのものを建設する、というイメージです。
ミュージカルだし、サーカスだし、究極のエンタテイメントを目指していますが、
その中心には、一貫して、
そういう硬派な精神を貫きたいと思っています。
で、なければ、
本来、自然破壊や、税金の無駄遣い、の部分の方が多い、建設という行為を、美しく輝かせることが難しいと私は思っています。
建設は、人間にとっての業であります。
創造であるとともに、破壊でもあるのです。
そこに一本の筋が通らなくては、愚かで醜い行為に成り果てるものです。
そいう点で、芝居に似てるなあとも思う、この頃です。
ともあれ、熱い感想をありがとうございました。
今回はご期待には添えませんでしたが、
これからも、作品に魂を込めて、創り続けて参ります。どうぞ、扉座を見続けて下さい。