時が経った、と思うことばかり
ツリーの完成で、すみだパーク近辺も、やたら騒然としてきた。今日の帰り、見上げると、鮮やかなライトアップ姿。
『つか版・忠臣蔵』はガシガシと稽古している。
久しぶりに、音響の青木タクヘイがずっと張り付いて、稽古の進行に合わせて、選曲をしている。
そうです。
つかこうへい、ですから、カッチョ良い台詞の後ろにガンガンと流れる、音楽が命です。
タクヘイも、久しぶりに存分に出来ると読んだようだ。
最近、くどいBGMはなるべく避けようとしてやってきてたからな。
だが、今回はコテコテでいく。
観客諸君も、覚悟して欲しい。
そんな時に、ル・テアトル銀座が来年あたり、閉館になりそうだというニュースが。
ここはセゾン劇場という名で創業した時から、ワシはとってもお世話になってきたのだった。
前述の山本亨も出てた『七人の戦士』のあと、初めてのメジャー作品を書かせて貰ったのが、セゾン劇場だった。開業年度の『きらら浮世伝』という作品。
ここでの仕事がなかったら、私のキャリアもずいぶん違ったモノになったことであろうよ。
この時の美術デザイナーだった朝倉摂先生が、無理が利く、若いホン書きを探していた猿之助さんに、私の台本を渡して下さったのが、猿之助さんとのご縁の始まりである。
杉田成道監督とか、河毛俊作監督とか、テレビ系の人たちとご縁が出来たのも、ここでの仕事だったし
三木のり平さんと出会わせてくれたのも、この小屋だった。
つかこうへい作品 もずいぶんここで観た。
つかさんがここに度々登場するようになったのは、今は演出家として有名になった、岡村俊一が、ここの営業担当サラリーマンだった頃、隙を見てはプロデューサーたちにすり寄っちゃ、自分の立てた企画を持ち込んでいたのが、発端である。
もともと劇場の仕事に関わりたくて、西武百貨店に入社したという男である。ワイシャツとかの売り場担当から、ジワジワとセゾン劇場方面に、接近していったのである。
当時はバブルだったから、そういう道筋も、あり得たのだ。いろんな会社が劇場経営とかに乗り出した頃だ。
その後、岡村はセゾンを辞めて独立し、RUPという製作会社を設立して、スマップとかジャニーズの人気者を舞台に担ぎ出す、先駆者となった。
私としては、
加藤和彦さんも音楽で参加していた『新・水滸伝』の初演が、最期の仕事ということになるのかな。
のり平さんも加藤さんも、すでにあちらに引っ越されている。
セゾングループの黄金期、いろんな寄り合いとか、打ち合わせに参加しても、たいてい一番若造で、あまりにバブリーなレストランとか、飲み屋とかで緊張しオドオドしていた、私や岡村も、もう中堅を超えた歳になった。
バブルの最期も見届けた我々である。
そして迎える、閉館。
バブルの遺跡といってはそれまでだけど、とことん新しいことにチャレンジした劇場だったと思う。
手垢のついたものはやるな、という堤オーナーの意向があって、とにかく若手や異業種の才能を使おうというポリシーがあったと聞く。
だからこそ、まだ20代で劇団が紀伊國屋ホールにやっと進出したばかりという、私のような新人に、大きな仕事をやらせてくれたのだ。
ついでに言えば、劇場はまったく儲けなくていいと豪語していた。
何しろ、バブル期で、多くの会社がお金の使い方に、困っていたような時代なのだ。
完全な時代の徒花。
だけど、文化芸術って、そういう時に、珍しい花を開かせたりするのも確かである。
バブル崩壊以来、何度も閉館の噂のあった、劇場。
多分今度はもう、助からぬだろう。
寂しいけどな。
こうして時が経ってゆくのだ。
そしてワシは、久しぶりの小劇場公演に燃えている。