泣いたぞ

 02年、7月4日。昨夜のこと。
 
 八年ぶりに、三代・猿之助、が芝居の舞台に立った。
 八年前は、新三国志完結編を継続上演中だったので、晩秋の博多座『西太后』公演のさなか、小さな脳梗塞がみつかってから、あれよあれよと、猿之助さんの具合が悪化していくのを、間近で見守っていた。

 その後の闘病と、さまざまな出来事と。喜びより、苦しみの方がはるかに多い年月。

 そんななかでも、私たちの願いは、ひたすら猿之助の復活だった。

 昨夜、ついにその日は来た。

 そりゃ全盛期の姿には、ほど遠いが、
 新猿之助がおもだかやの至宝『黒塚』を見事に演じて、3代目の美と躍動が、4代目にちゃんと継承されてゆくのだ、という証を立ててくれた。
 4代目は黒塚でも、鬼女の悲しみを、切々と表現した。黒塚の鬼は、女であるところがミソで、時に愛らしかったり、己を恥じる姿に憐れさと同時に、不思議な色気が出なきゃ値打ちが下がるんだが
 4代目の繊細な柄と感性が、女の鬼を、深く伝えていたと私は思う。
 
 夜の部・序幕の『将軍江戸を去る』は、地味すぎて、硬質すぎて、何だって襲名披露で、というような演目である。
 ずーーーーっと、夜更けの中にあり、少人数の会話だけで芝居が進み、
 催眠術の如し。
 最後に、夜明けが来るんだけどね。エンノスケ型の、いきなりどーんと迫り来る夜明けじゃなくて、リアルにじりじり明けてくる。
 
 ただし、眠くなるほど自然というか、
 初めて歌舞伎をやっているという人が、宗家団十郎と絡んで、まったく違和感なく、やれちゃっているのは、
 いかに古典ではない演目とはいえ、驚くべきことだと思う。
 そんな地味な世界の中でも、新中車さんは、ちゃんと手を貰っていた。
 手をもらわなきゃ、つまり拍手されなきゃ歌舞伎じゃない。というのがおもだかやの教えであるが、リアルに上手いだけじゃそうならないので、なかなか難しいことなんだ。
 スケールの大きい役者だなあと、これはもう現代演劇目線からも驚嘆する。

 おもだかや、って、かつて歴史の中で、宗家から破門された家で
 団十郎家とは、ずーっと疎遠だったという関係だ。

 当代の両家にそんなわだかまりはないが、人々は面白おかしくそれを話題にしてきた。
 そのなかで、襲名披露を宗家がしっかりとサポートし、しかも五十近い新人が、宗家と四つに組む初舞台を堂々と披露する。

 これも後の世の伝説となろう。

 それやこれやで番付は進み、いよいよラスト。
 二十分の休憩後、十分間の演し物。
 コントでもお馴染みの、絶景かな絶景かな。

 五右衛門を乗せた山門がせり上がると、
 猿翁が現れる。
 段四郎さんもやってきて、弟子たちもずらりと居並ぶ。

 しかしそうなる前、幕が開いたときに、もうこちらは泣いていた。

 休憩の時、舞台美術家・金井勇一郎さんが、稽古バッチリだったからね、と言うのを聞いて、泣きそうになり、
 花道に、弥十郎さんはじめ、右近や月乃助やが取り方で現れた時に、ドキドキしはじめ

 鮮やかな山門が出た時には、目が霞み始めた。

 あとはなんかもう、夢の中にいるようだった。
 たぶん旦那が出てから、幕切れまで5分もない。

 でも、一生忘れないと思う。
 
 気が付いた時には私ゃ立ち上がって、拍手を続けていた。
 その後のカテーンコールが用意されてるかどうかは知らなかったけど、叩き続けていたかった。
 ついでに、おもだかや、と叫んでいた。
 どうしても、呼び戻したかった。こういうのを本当のカーテンコールっていうんだろう。
 
 今観たことが、幻しでなかったことを、もう一度確かめたい。

 そのうちに幕が開いた。
 それは一瞬のような永遠のような光景だった。
 更に深き夢のようだった……

 黒塚を観ながらも、いろんなことを考えていた。名古屋中日劇場で、初めてエンノスケさんにお会いした時、もう20年以上前だけど、
 その時はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場でやった黒塚が大好評だったので、特別に数回だけ上演するという企画があった時で
 面会前に、その舞台稽古まで見せて貰った。

 その日から私とこの巨人との関係がスタートしたのだ。

 そして八年前、病に倒れたエンノスケが舞台から離れた日々。

 たまたま近くにいたりして、門弟でもない私が、観てはいけない光景も、たくさん見てしまった気がする。
 あまたの人が去ってもいった。鬼籍に入った方も少なくない。
 積み重なる誤解とか、絶望とか、まあ言えないことも、いろいろと……

 しかし、この巨人の中にあって、やっぱり真実は、ただただ舞台にあった、と思う。
 舞台裏なんて、どうでもいいんだ。
 
 この人が夢見て、生み出す世界のなかで、起きる出会い。私たちは、それをこそ愛してるんだ。
 そこで何もかもが、許され、喜びに変わり、希望となるんだ。

 離ればなれだった、巨人の家族が、再び繋がったのは、歌舞伎あらばこそ、舞台に生きてこそ、である。
 一度は、離れたかに思えた人々が、昨夜の舞台でまた、結集していたのも、舞台の上だ。
 この人が生み出した舞台という仮想の世界の上だ。
 
 舞台裏の幸福は、よう分からん。かなり微妙。
 それは、悲しむべきことなのかもしれぬ。少なくとも一般的な人生にとっては、な。

 しかし巨人にとって、舞台こそすべてという境地は、もはや後戻りできぬ、ただひとつの真実なんだ。

 そんな舞台に、巨人が再び帰ってきたのだ。

 芸能ニュースは、家族の美談でまとめようとするだろうけど、
 そんなことじゃないんだ。
 もし家族の物語としても、ここに、呑気なお茶の間なんかない。
 それは浮世離れの神殿で繰り広げられる神話のような、物語だ。テレビの向こうの、お茶の間なんか、ひきまくりだよ。 

 狂気を帯びた希代の天才が、生まれては消えていく舞台という儚き世界のなかに、
 永遠を出現させようとする、満身創痍の闘いのワンシーンなんだ、これは。


 なんだかひたすら興奮し、自分の仕事はちっとも進まず。
 でも闘志だけは湧いてきた。

もう一度、この人と新作創らせて貰うために、がんばる。

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 

 
 


関連記事

この記事のハッシュタグに関連する記事が見つかりませんでした。

アーカイブ