感謝
来年閉まるという、ル・テアトル銀座 がセゾン劇場という名でオープンした年度の『きらら浮世伝』。
その主演が、中村勘九郎(当時)さんだった。
私にとって初めてのメジャーな仕事というよりは、劇作家としての通過儀礼のような公演だった。
その時、勘九郎さんが惚れ込んでいたのが、本来はテレビのディレクターの河合義隆さん、『RONIN』という映画を撮った。
その河合さんに舞台の演出をして欲しいという、勘九郎さんのたっての願いで実現した公演だった。
ただ、この河合さんという人が、エキセントリックで激烈で、本の打ち合わせから、殺されるんじゃないかと思った。
実際、私が書き手として呼ばれる前に、ふたりぐらい、プロのシナリオライターが打ち合わせで、リタイアしたのだと後で聞いた。
ただ私を守ってくれる人もいて、この人も河合さんと数々のドラマを作って盟友だった、道祖土健プロデューサーと、私に声を掛けてくれた、セゾンの沢木プロデューサー。
そりゃ横内クン、勘九郎の芝居書くんだから、簡単にはいかないよ。
ただ、キミの将来にとって、これは、ぜったいに宝になる。だから投げ出しちゃダメだ。
河合に勝て。
河合さんの盟友なのに、そう励ましてくれた。
河合さんとは、何度か、怒鳴り合いみたなことにもなって、それでも書き直し、書き直し、何とか書き上げて、
これで行こうと言うことになった。
良いよ、このホン。
勘九郎さんの真剣な目と声は、今も忘れない。
いつも笑ってる人だったけど、時に、じっとこちらの目を見据えて、本当のことを言ってくれた。
その目は、とても怖かった。
河合さんの目も怖かったけど、さらにこの世にあらざるというか、イッちゃってる気がした。
通し稽古で、私が書いた台詞を言いつつ、勘九郎さん演じる蔦屋重三郎の目から涙が流れ落ちたのを観た時、
嬉しかったとか、感動したとかいうことでなく、
私は、もう後戻りできないところに来た、というそこはかとない恐怖を感じた。
それはきっと、勘九郎さんもあの時、河合さんと真剣勝負を闘っていたからだろう。
ちきしょう河合、ぶっ殺してやる、そう言いつつ、何度も同じシーンをやり直す、勘九郎さんの言葉は、冗談に聞こえなかった。
こんなに闘い合って、芝居というものは、作らなきゃイカンのか。
あこがれの場所は、斬られれば血が噴き出し、たちまち血ダルマになるような、抜き身の決闘の場だと知ったのである。
あの時、私がかすり傷で済んだのは、稽古場の闘いに行く前に、本作りで、河合さんに充分に揉まれていたからである。
例によって、稽古帰りは毎日酒盛りでらんちき騒ぎだったし、勘九郎さんは、常にその和の真ん中にいて、ひたすら元気で周りを盛り上げていた。
だから、私も、さぞ楽しげに見えてたと思うけど、
実は、確実に、生まれ変わる自分を感じた日々だった。
あの時、プロになったのだと思う。
そして、いつか河合さんのように、勘九郎と真剣勝負出来るようになりたいと、思った。
青山にあった、勘九郎さんたち、行きつけの飲み屋での三次会、長い長い打ち上げも終わりかけた、明け方近く。
確か、私はそんなことを言った。
ヘベレケで、半分裸みたいになっていた勘九郎さんが、その時、すっとまたあの目になって
覚えておく、とじっと目を見返してくれた。
あの人は、じっと見た目を自分からは逸らさない。
こちらも、真剣な思いを必死に告げたので、目が逸らせず、しばしふたり、睨み合っていた。
もう二十五年の夜明けの出来事。
今も忘れられない。
その『きらら浮世伝』を読んだ、三代目・猿之助さんから誘われて、以降、私は何となく、おもだかチームの人、みたいになったのであるが
実は、通過儀礼の時に抱いた、その夢は捨ててはいなかった。
いつか、これだというネタを掴んで、書かせて下さいと直に言いに行くつもりだった。
気が付けば、河合さんも、道祖土さんも、あの時出てた、川谷拓三さんも、彼岸の人となっている。
悲しくて、やりきれない。
伝えたいのは、ただ感謝。
そしてささやかな決意。その情熱を引き継いで。
教わった大切なことを、次の世代に伝えてゆきますと約束する。