中也が来るはず
『フレンド 今夜此処での一と殷盛り』の音楽は、ミス・ケーコ=深沢桂子先生にすべて作曲して頂いた。
歌じゃない、劇伴というかBGMで、ミュージカルの音楽監督の巨匠に、失礼かとも思ったけど、まあ、たまにこんなのもいいんじゃないの、とお誘いしたら引き受けて下さった。
案の定、打ち合わせでは、こことここは歌になるわね、と。
ココはデュエットで、ここは合唱、みたいなことを言っておられたが、
すみません、今回は 歌なしです。
で、きっちり、BGMを創ってくれた。
なかに数回、テーマ曲的なものが流れるのだが、これが、まんまとケーコの罠にはまり、我々のアタマの中で、すでにグルグル再生状態。
口ずさんで貰えるような曲を創る、というのがミュージカルの時の、ケーコの基本姿勢だ。で、今回は歌詞もないのに、そんな曲を入れてきている。で一同、稽古場で、フンフンとメロディーをくちずさんでいる。
とくに遠藤要は、いつも、トイレに行くときに、鼻歌で奏でている。
ちなみにケーコと創ったミュージカル『げんない』は来年新春まで、秋田角館わらび劇場で絶賛ロングラン中です。
ところで中也の詩の幾つかは、実際は昭和初期に、歌にされている。
スルヤ という音楽集団で、生前の彼の活動のなかでも、大きな柱となったもの。
詩は売れなかったけど、曲にのってラジオに流れたりはしたんだそうな。
そして演劇もたくさん見ている。
チェホフなどは、セリフまで口ずさんでいたという。
平成という時代で、自分のことが舞台になってる、それも当代一の人気者の一座で、ケッコウな規模でやられると知ったら、どう思うんだろうか。
まあ、容赦なく手厳しいダメ出しをしてきたに違いないが。
中也が、わざわざ会いに来た、新人の太宰治に意味不明のダメ出しを、しつこく繰り返し、ついに泣かしたという話は有名。
まるで我々の青春時代によく高田馬場辺りにいた、アングラの兄ちゃんである。質が悪い。しかも貧乏というか、生活と性格の破綻者。出来ればお会いしたくないタイプである。
でも、きっと新大久保の劇場に舞台を見に、ソッと来てくれる気がする。暗がりのどこかでじっと舞台をみつめてくれる気がする。
生きてる時から、自分の骨をみていたような人だからね。
ホラホラこれがぼくの骨だ、って……
高田馬場、西早稲田は、恋人の泰子と上京してきた中也が最初に小さな部屋を借り、ままごとのような同棲生活を始めた場所。戸山の辺り、きっと近くを何度も歩いている。中也の足跡が残る一帯。
この舞台では、中也を泣かしたい。
ともあれ、グローブ座公演は
衣裳を付けての通しも終わった。
ぐっと気分が盛り上がる。
関東大震災の復興期から、茶色い戦争の時代まで、何年かに渡る話なんだけど、衣裳の変化が、それを自然に伝えてくれている。
コレも、扉座でずっと組んできてくれた キシクミヤコと大屋博美のドルドルコンビの仕事。実は美術も音響も照明も、扉座と同じスタッフ。
そういう意味で、まるでホームのように、やらせて貰った。
皆、プロ中のプロなので、ここからはもう私はただ、大きな船の船長のように、思わぬ氷山の出現だけ気にしてればいい。
いよいよ、稽古場も終わり。間もなく小屋入り。
ずーーーーーーっと前に、V6長野博さんが『ファーティンブラス』をやってくれて以来。関ジャ二の村上君が、まだジュニアだった頃、若い舞台俳優の役で出てくれてた。
でもそれは、私の演出じゃなかったからな。
オレなりに、グローブ座・デビューである。
この小屋が出来てすぐの頃、
劇団で借りに行ったら、粗雑な若手劇団なんかダメですよ。
うちはシェイクスピアやる立派な劇団にしか貸さないんです。と断られたんだ。
まだジャニーズの小屋になるずっと前のバブルの頃の話。
なんだったんだろうな、あの頃。
中也にからんで、ぶん殴ってもらいたい。