NAOTORA
扉座シェイクスピア計画、進行中。
グローブ座で、シェイクスピアをやらずに、
座・高円寺と、厚木で、わざわざシェイクスピア的なものを演る。
ひねくれたワケではなく、たまたまの展開である。
しかし、やってみるとシェイクスピア的にやるっていうのも、なかなか難しい。
シェイクスピアは、骨太のストーリーと、明解なテーマ、そしてリリックなセリフが醍醐味と思う。
で、そんな感じを日本の歴史で新作として、創れないかと、挑んでいるのだが
骨太と明解は、そこそこ出来るだろうと思うが、リリックなセリフというのがな。
そういうセリフがどうもムダに思えて、切りたくなってまう。
ま、実際、シェイクスピアやっても、そこんとこが長いよな、そんなにいろいろ言わなきゃダメかな、と思うところ多々なわけで
とはいえ、やはりシェイクスピアの良いところは、セリフこそが、演劇の売り物だろうという、揺るがぬ価値観のもとに、テッテ的に、セリフセリフで押し切るところだ。
セリフが痩せた時代である。
人のしゃべり言葉は、いい加減で、決して論理を伝えない。
心なんか伝えないよ。
飾った言葉は、しゃべり言葉とは言えないだろう、修飾語なしでもっとリアルに、素朴な単語を発したい。
それが現代演劇がここ数年、目指したところだ。
でも、私はそこはとんと目指さなかった。影響は受けたけどな。
セリフのダイエットは、しなかった。贅肉有りでこっこうかまわぬ。
だってセリフが好きだから。
『フレンド 今夜此処での一と殷盛り』は、日常を描いたものだけど、セリフが多い。
セリフをこんなに書く劇作家、少ないから、横内は珍しい。
みたいな言い方を、この舞台でもされている。
劇団員たちがよく、よその人に、そう説明している。
うちは今どき珍しくセリフが多いんです、なんて。
そして「セリフいらない派」からは私のやり方は、たぶん、あざとい、飾りすぎと言われる。
しかし、あざとく飾ってなくて、なんの芝居だと、私は思ってるから。
ドキュメンタリーは、きちんとドキュメンタリーで観るから、私は。
もっとも私は、セリフいらない派、の芝居も決して嫌いではない。
観客としても、演劇人としても。
たしかに言葉はいい加減なもので、人を裏切ることも多い。
セリフが、観客席にまったく向かわず、舞台の中の人物たちの関係だけを結び、あるいは破壊する。
そのさまを覗き見のように、じっとみつめることが、面白いこともある。
でも、そこはもう、なんちゃうか、三つ子の魂、百までというやつなんだと思う。
言葉が、いかにいい加減かも、出来ることなら、セリフで聞きたい、書きたいと思ってまうんだね。
つかこうへいのセリフに導かれて芝居にハマり、歌舞伎の言葉の心地よさ、明解さに、プロにしてもらった私は
セリフが味気ないというのが、なんとも寂しいんである。
役者には、良いセリフ、面白いセリフをいって欲しいし、言わせたい。
過剰であってこそ、エンゲキ。
演劇界の潮流が今、どうなっていようと、そういう感覚を持ってしまうともう変わらないし、少なくともオレが変える必要はないんだと、35年やってきた、そこが結論である。
でそういうことを目下、鋭意追求中。
しかし世の中、セリフが始まると、たちまち自動的に寝てまうという人が、とても多くなっている。
昔の客は、もっとガマンを知っていた。
とコレは、私が若い頃、ベテラン演劇人からよく聞いた、嘆き。
今は私が、嘆いている。
しかしこのままじゃ、芝居は廃る。
誰にも頼まれていないのに、勝手に背負って、頑張ることにしたい。
骨は誰かが拾ってくれるだろう。