打ち上げのなかで、思ったこと

 ラブラブラブ18が終わった。
 その夜、打ち上げがあった。

 我らの業界には、大入り袋配りという儀式があって、ひとりひとり関係者、スタッフ、キャストの名が呼ばれるのだけど、
 この時に、うちは一座気が狂ったように、大騒ぎする習わしとなっている。
 騒ぎすぎて、出入り禁止になった店も数知れず。

 先日も、かなり近所迷惑な感じで、バカ騒ぎになった。
 大入り袋を配る係をやっていた、演助・渡邊は、昨日、美浜千葉魂の稽古場で会ったとき、カスカスの声になっていた。
 皆に風邪かと心配されていたけど、原因は打ち上げである。

 一座が若くて、しかも初めての本格公演だから、そりゃ気合いも入るし、興奮もする。
 しかし、責任者チームの大人としてはひたすらハラハラである。
 暴れすぎて店のモノを壊したりしやしないか。
 警察とか呼ばれるんじゃないか……

 幸い、我らが行き着け・正義の味方・安安様の深いご理解で、事なきを得たがのう。

 でも、その風景を眺めていて、というか私も当事者なんだけど、到底同じテンションに盛り上がることは出来ず、なんかちょっと遠いモノを見る感じているしかないんだけど
 ふと、劇団をはじめて5年後ぐらいのころの光景が浮かんだ。

 あの頃は下北の、庄屋がメイン会場だったけど
 座敷の宴会場で、声張り上げて歌ったり、踊ったりして、本当にもう、声もカラダも壊れるまで、打ち上がっていた頃の記憶が鮮明に蘇り、甘酸っぱい気持ちがした。
 今はもう、34年も劇団やって来てるから、公演に対して新鮮みなんかないのである。
 当然、打ち上げも、その時々に楽しいけど、命がけでやることはもうない。

 大入り袋配りも、別に良いんじゃねえと思うことも多々。
 そもそも大入りでないこともあるんだし……

 しかしあの頃は、違った。
 その一回がすべてで、愛おしくて、去りがたくて……悔いがあって、身悶えしてたり、観客の反応に、打ち震えていたり……
 終わった時には、全身がカッカと燃えていて、とてもそのままじゃフツーの生活に戻れそうになかった。
 で、その祭りの終わりを惜しんで、その時間を永遠のようなモノに、変換したくて、
 倒れるまで騒いだモノだ。

 今の研究所のように、責任者的な大人たちもいなかったら、
 その勢いは尋常なモノじゃなかった。
 アングラ世代じゃないから、楽しくやるのがモットーだったけど、それでもエネルギーが溢れて止まらず、激烈な喧嘩もよく起きてたし。

 あの頃、そばにいた、大人の人たちは、さぞハラハラしてただろうな……

 要するに、昔も今も、たいして変わってないということだ。
 わしらが歳をくっただけ。

 その熱狂の夜から、二晩が過ぎた。
 メンバーたち、大きな充実感とともに、さぞ、大きな穴ぼこが、身にも心にも空いているとこだろうよ。
 あれだけ濃密だった、時間と、仲間たちとの繋がりが、一気に霧散してゆき、気づけば、たった一人の自分がそこにいるだけなのだから。

 空しいと言えば、これほど虚しいものはない、芝居という幻。

 しかしな、それをもう何度も味わってきた、わしらオッサンおばさんは知っている。
 大きな穴ぼこがそこに空く、という幸せを。
 それだけそこに、大事なモノが詰まっていたという証だ。

 これから、またその穴に詰めるべきモノを探し、
 セッセと、詰め込んでいくのだ。
 満ち足りていた記憶を手掛かりにして。

 そんな穴ぼこを持っていると言うことは、実は幸せなことなんだ。

 二日遅れの、千秋楽おめでとう。

   
  
   
 
  
  




関連記事

この記事のハッシュタグに関連する記事が見つかりませんでした。

アーカイブ