蒸し暑い日の暴論
新しい国立競技場のことが何かと話題になっているが、
私の意見を少々。
別に、求められた訳でもないけど、勝手に述べる。
あれは、どこの誰かも私はよく知らない建築家のデザインであるが、やるんなら、覚悟を決めて、借金してでもドーンと当初のデザイン通りに作るべきだと思う。
この際、デザインの好き嫌いは横において、基本的な考え方としてね。
お金がかかり過ぎるのでプラン縮小とか見直しとか言ってるけど、
いっちゃんいけないのは、天才のプランを中途半端にしてしまうことだと思う。
デザインが素敵かどうか、とかいう議論はとっくの昔に終わってるはずのことだし、
そもそも競技が出来れば、それでいいはず、とかいう意見に立ち戻るのも極めて馬鹿げたことだと思う。
すっげーカッチョよくて画期的なのこしらえようぜ、と決めて、専門家たちが本気で取り組んだのなら、今更ふつーのものに、戻すなよと言いたい。
あのデザインに大金賭けるのはムダという、素朴な考えは、正しいけど、今となっては正しくない。
そこはもっと初めの段階で、議論を尽くして、決めておくところで、すげーのデザインするんだと決めた以上、ちゃんとデザインし尽くすのが、クリエイトするってことだろうと思うんである。
建築家たちだって、そのために必死に考えたはずなんだし。
その労力を、舐めてはイカンと思う。
頭の中に、空想だけで生まれたものだからタダなんて理屈は、許されない。
それこそが、価値なんだから。
景観を損なうとか、そんな意見も今更ナンセンス。
違和感も歴としたデザインだし、時に異形、不便さすら、建築の中では善として、懸命にデザインされるんである。
遅いよ、そんなこと今言い出しても。
しかし、そんな突飛なるプランを実現するには、当然いろいろ困難も生じるし、プラン変更を余儀なくされる場合もあろう。
でも妥協は、限りなくゼロに近づけるべきである。
予算というものに絞られて、画期的な舞台美術や、衣裳プランがどんどん小さく、安価なものになってしまう悲しさを、何度も経験してきた私の実感である。
ナシならいっそナシで仕方ないけど、やるんなら徹底的にやる!予算的にも、かける手間暇も、労力も。
じゃないと、本当に凄いもんなんか出来っこないのである。
ついでに言えば、みんなの意見なんか聞いていて、真の独創に至ることが出来ると思うかね?
偏りとか、極端とか、暴走とか。
それこそが芸術的精神だろう。
そういう天才に託すと決めたのなら、腹括ってのぞめと言いたい。
ルードヴィヒ2世という王子様が作った、バイエルンのお城があるでしょ。
あれだって、浪費と言えば浪費だし、無駄と言えば無駄だったはず。なにせ狂気の王と呼ばれてた人の所業だ。
貧しさにあえぐ庶民たちからすれば、フザケンナのことだったはず。
でも、そこは今、世界的な観光地だし、非難よりも称賛、感嘆の似合う場所になっているはず。
狂ってると言われるほど、徹底的に、そして独善的に、信じる美にこだわって、こしらえたからだろう。
やるなら、それぐらいの覚悟でやれよ。
狂ってるといわれても、天才を信じて、新しい価値を生み出そうとし給えよ。
問題は税金使って、そんなことしていいのか、という話なんだけど。
無駄と言うなら、もっととんでもない無駄が、我が国には溢れかえっているではないかね。
この建設やめて、我が国の芸術団体に、余った分を分配しようとか言ってくれるなら、私も即刻計画中止を唱えるよ。
そんなこと、起こるはずないもんな。
浮かした金で
高い兵器や武器買ったり、わざわざ綺麗な海潰して、基地作ったり、この上に尚、「次こそ安全な」原子力発電所を建設しようとしてみたり、
そんなことに使うんだろ、どうせ。
びっくりデザインに、国家予算つぎ込んで、デフォルトしてみるような国のほうが、いっそ面白いと、私は思うんである。
そして、それぐらいのことがやれる国は、変な滅び方はしない、とも思うんである。
だって、そこには、今までと違う価値観が生まれているということだから。
今までの価値観を変えてかなきゃ、この世界は遠くない未来、滅ぶだろうというのは、かなり真理に近い予言なのではないか。
いいから、やっちゃえ、という人が、もっといてもいいと思うんだけどな。
2千億足りない?
なんとかなんじゃね、ギリシヤよりマシだべ、みたいな感じでな。
変な予算どんどん増やして、借金をひたすら増やしてる国なんだぜ、この国は。
半世紀に一度のことだよ。これぐらい、ドーンとやっちゃえば。
とにかく中途半端がいっちゃんダメだ。