最後の伝令

 今年はたくさん書かせてもらった。ずーっとPCに向かい続けで、マウスを持つ手が、ジーンと痺れている。
 その激闘の仕上げが、扉座の為の新作『最後の伝令』である。舞台の主人公となる、菊谷栄、作の喜劇脚本のタイトルだが、それをまんまヤルわけでいない。菊谷栄そのものを描く作品だ。

 チラシ裏にも書いてあるので、ここは端折るが、父方の故郷、所縁の人だ。私の父は秋田の人で、秋田高校とか出てるのであるが、横内の本家は明治ぐらいから青森にあったのだという。
 三十年近く前のこと、父の遠縁の、横内忠作さんいう方から、菊谷栄の名を初めて聞いた。実は、その人は、昭和の初期の頃、菊谷の友人だったというのである。レコードの収集や、絵画のコレクションなどで全国的に著名な、青森財界の資産家だった。そんな親戚がいるのに、なんでうちの横内は、何の資産もないのか、そこは今後の研究課題である。

 ともあれ、その方との出会いで、菊谷の名を知って、戦前の浅草とか、あちゃらかオペラの歴史とか、レビュー、ミュージカルの我が国での発生、進化などに興味を持ちはじめ、そういうモチーフの作品もいくつか書いて来た。
 もう20年以上前に東京芸術劇場で上演された『モダンボーイズ』(主演・木村拓哉さん)はそのど真ん中の作品である。

 しかしその後も、ずっと横内のルーツであると言う、津軽と、私の大先輩だなと思われる、菊谷栄のことは気がかりで、新しい研究本など出るたびに、買うだけは買っていた。(あんま読んでなかったけど……)

 菊谷が何で先輩かって言うと、徹底的にエンタテイメントの人だったからな。エノケンと共に、とにかく大衆を楽しませることを信条として、フツーの観客たちに向き合った人だった。当時、社会問題を深く考える新劇は精力的にやっていたし、菊谷も一時はそっちを目指したんだ。共産運動の活動資金を、気前よくカンパしてて、逮捕されたりもしてな。
 でも、エノケン一座の座付作家となってからは、こんな発言をする人になった。

 不景気だし、軍靴の音は近いし、辛いことは世の中の人、皆が充分、味わっている。これ以上に、舞台でまでツライ現実を見せなくても良いだろう。

 菊谷の作品への批評が結構、今に残っている。くだらない、低俗だ、とケンモホロロの酷評の嵐である。毎月毎月の公演に書き下し続けてて、荒くなるのも当然だし、同情の余地は大いにあるのだが、その批評にリスペクトの欠片もないものが多い。実は最先端のジャズを取り込んだりして、スゴイことをやっていのに、そこにはあんまり気付いて貰えてなくてな。
 批評と言うのは、難しい解釈で輝くものだから、誰が見ても楽しい、可笑しいを信条とする彼らの舞台は、そもそも批評なんかを必要としないのであった。興行はきっちりと成立していて、まったくめげることもなく、菊谷は新人ダンサーの育成などに、心血を注いでいた。

 観客たちの拍手が、彼と彼らを支えていたんだろう。
 
 『モダンボーイズ』は、昭和初期の混沌とした時代に向き合う、劇場と、劇場人たちの思いを、描きたいと思った。出来たばかりの真新しい劇場への書き下しだったしな。

 しかし、今回は菊谷そのものを描こうと思っている。私には珍しく個人を描く感じの作品になるんだけど、その後、人生を重ねて来て、仕事も続けて来て、
 今、菊谷そのものを書くことが、きっと何か大事なことを描くことになると、そういう勘が働いたのである。そして舞台を、津軽にしようと思った。(東京の劇場も出て来るけど……)

 父は早くに秋田を離れて、以来、ついに帰らず東京の人になった。だから、私も時折の思い出話に、秋田や青森のことを知るだけだったのだが、厚木や、東京を描くように、元気なうちに、一本ぐらいは津軽を舞台にして、作品を書いてみようという思いもあった。

 そんな作品を今、ほぼ書き上げて、徐々に打ち合わせも始まっている。

 と、時間に追われてバタバタとしている間に、ひとつ出来事があった。

 父が病を得ていることが、この秋に判明したのだ。俗にいう不治の病である。数えで米寿と言う年なので、病魔の進行は、かなり遅いようだけど、治療はしない方針を決めた状況である。
 八月には、それこそ『ねぶた祭』なんか観に行ってたし、つい最近まで、夜の神楽坂を飲み歩いていたから、私もびっくりした。
 聞けば、何の検査もしてなかったそうだよ。のらりくらりとな、と笑って言っている。

 もっともそう判明した今も、自力で歩いて、飯田橋の事務所で、事務仕事なんかやっていたりするので、本当にそんな病気なのかね、と疑いたくなるほど元気ではある。

 先日、台風で流れてしまった、『リボンの騎士』の岡森とのアフタートークで、最後に呼び込んで、皆さんに挨拶をさせようと思ったのに、これが実現できず、とても残念だった。

 会社を卒業してから、その後今まで約二十年、扉座の製作として、ずっと働いていましたからね。父だけど、劇団顧問みたいな立場だったのだ。東北の演劇鑑賞会の方々など、私よりも名が通っていたりもする。本当に皆さんに、可愛がって頂いている、スタッフである。

 そんなこんなで
 俺が元気なうちに、津軽の話を!と思った企画が、思いがけず、オヤジが元気なうちに、しっかりと上演を!に変わっている。

 今は、厚木公演のロビーにしっかりと立って、お客様に、ご挨拶をしようというのが、近々の予定となっている。

 決して、個人的な思いだけで、大事な作品を創りゃしないんだが、今この時、津軽の菊谷栄をやることは、何かの因縁だなと、巡り合わせを噛みしめている。
  
 渾身の舞台をお見せしたいと思っている。
 







 

 


 



















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