菊谷栄の時代 #最後の伝令

 新作 『最後の伝令』は昭和初期が舞台である。正確に言えば、昭和十二年。1937年。
 この年、日本は傀儡国家であった満州を巡り、中国との戦争に突入する。
  
 アメリカやイギリスとの戦争となる太平洋戦争の前だ。戦争と言うと、アメリカとの開戦以降のイメージが強くて、敵国の言語である横文字、英語や洋楽の演奏禁止が思い浮かぶが、それ以前だと、巷には普通に横文字が溢れていた。
 中国での戦争に向かった、菊谷栄の遺作となった、1937年9月公演の作品のタイトルは『ノー・ハット』である。アメリカの人気映画作品『トップハット』の換骨奪胎版である。
 
 作品の事前検閲は激化し、すでに思想統制は始まっていて、菊谷も言葉狩りに遭って、苦労したようだが、ジャズの演奏や横文字そのものは、普通に使うことが出来たのである。この時期、時代は3か月刻みぐらいで、大きな変化を遂げてゆく。
 1937年秋のピンポイント設定と言うのが、今回の舞台の、かなり大きな要素である。
 
 たとえば、菊谷出征の辺りでは、天皇陛下万歳! というような描写はまだ少ない。この戦争は天子様に命をお捧げする聖戦である!というような描写は、かなり時代を下ってのことなのだと思われる。
 菊谷の残した言葉の中には、戦争 に対する言及ははっきりとあるけれど、天皇と言う言葉を見かけない。この戦争の始まりは、あくまでも日本にとっての経済的な要所、つまり搾取の大地となりつつあった満州と言う傀儡国をいかに守り通すか、という明確な損得勘定があってのものだったのだと分かる。

 天皇のために命を捧げる、聖戦などという怪しい言葉が中心となり、やたらに精神が語られ始めるのは、戦局がもっとヤバクなった時であった。

 若い頃、青森の歩兵隊に、1年志願兵として入隊経験のあった菊谷は、まだ世間が戦時一色に染まる前に、誰よりも先駆けるようにして、戦地に向かい、敵弾に斃れたのであった。
 すでに中年になっていた菊谷が、そんなに早くに、招集を受けた背景には、菊谷が共産活動に一時加担していたから、みせしめとされたという説もあるが、それ以上に、志願での入隊経験があったという事実は重い。志願だから、自ら望んで一時、軍隊に身を置いた過去があるのである。
 なぜ、そんな経歴があったのかは謎だけど、

 その頃、軍人というものは普通に職業として、あったものだし。実際の戦闘に送られるということが、それほどリアリティのある事でもなかった可能性がある。
 軽い気持ちで、一年の兵隊生活を送ってみた。その可能性は大いにある。
 まさか、本当に戦争が起きて、自分がそこに巻き込まれるとは思ってもみなかった……
 菊谷の心中は、そんなだったような気がしてならない。

 関係者一同、おそらく本人もが、なんで今、戦争に行くのか?と疑問を抱きつつ、受け入れるしかない招集だったと思われる。
 そして、その経歴があったから、菊谷栄は、伍長と言う、小隊を率いる下士官の身分で戦地に向かったのである。人気レビュー作家が、若き兵士たちを率いて、突撃せよ!と叫ぶ立場になったのである。

 ここら辺のありようも、太平洋戦争末期、誰彼見境なく戦地に送られて、次々に人が死んでいった状況とは一線を画す、我々が物思い、考える余地があると感じる。
 実際、菊谷は戦地できちんと荼毘に付されて、遺骨がもどった時には、ジャズの演奏で慰霊する劇団葬が開かれている。レビュー作家・菊谷栄 の戦死は、きちんと個別の死として、記録にも記憶にも残されたのである。

 戦死なんてものは、すべて痛ましいものではあるが、菊谷の死には、痛ましさの中にも、何か言葉の入り込む隙間があるように思うのである。末期の戦争の惨状は、あまりにも理不尽にして、もはやナンセンスであり、すべての言葉を奪い取ってゆく。死に行く者が、ただただ憐れだ。

 レビュー作家として、戦争に行く。

 そんなことが可能かどうか。その問いから、今回の戯曲執筆は始まった。
 菊谷は遺書にそう書き残して、死んでいった。
 考える余地、さまざまに物思う余裕があった状況下での戦争。
 
 出口の見えない泥沼の戦時下とは、少し違う、自分の頭で考えつつ運命を受け入れた菊谷の戦争のありようは、戦争と言うものを冷静に見つめ直すキッカケになる気がするのである。

 菊谷が死んで、その後、状況は刻々と悪化を辿り、英語が禁じられ、洋楽が消され、自由な発言が完全に封じられる時代になってゆく。
 菊谷の言葉は、その前の、最後の、物思い考える兵士の言葉である。



 

 
 

 

 
 

 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 















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