飯田橋の事務所を閉鎖します。でも、元気す。

お知らせ 20年続けて来た飯田橋事務所を間もなく閉鎖します。
コロナ感染防止の自粛による、経済的ひっ迫が原因です。
(※こういうことちゃんと公表しておかないと、助成金とかの申請で、うちらみたいな業種は、簡単にスルーされてしまいそうですからね、言わずもがなのことをわざわざ記しています)

巷のお店と同じく、収入がなくなった上での固定費の支払いが困難になりました。
もっともこれも、最悪の事態を回避するための緊急措置ですから、ご安心ください。
潰さないために、半身を手放すだけです。
事務所機能は当面、錦糸町の稽古場内に移転します。
稽古場も今は、何にも使われていませんから。
事務所と稽古場、どちらを守るか。劇団として稽古場をとりました。
まだ引っ越す余力があるということでもあるので、くれぐれも義援金など突然送りつけたりしないで下さい。札束をポストに投げ入れたりしないで下さい。
いよいよ困った時に、改めて皆様に、ご相談申し上げます。

それはさておき……



オンライン研究所『エンゲキ虎の穴』に真剣に取り組んでいる。
何の支度もなく、いきなり始めたので極めて泥縄的で、講義の構成も甘くて、まとまりに欠けること甚だしいと自覚しつつも、
やるしかない、と己に言い聞かせて臨んでいる。

演劇論なんて立派なものじゃないけど、では何かと問われれば、私的な演劇論である。頼りは、今までの仕事を通して得た知識と自分が重ねてきた経験。

そもそも演劇論が嫌いだった。
とはいえ、大学に入った頃、一通りの洗礼は受けた。早稲田大学と言う当時の学生演劇の総本山みたいなところに入ったので、避けて通れなかった。難しい演劇書を必死で読んだものだよ。半分も理解してなかったと思うけど。
分かったふりして、高田の馬場界隈で、へ理屈を語ってました。あの頃は、みんなそうだった。必死に背伸びして……今になって、俺たちぜんぜん分かってなかったな、と同世代演劇人同士、反省したりしている。

当時、アングラの大家の芝居は、唐十郎にしても寺山修司にしても、かなり面白かった。つかこうへいから演劇に踏み入った私でも、それらの舞台や映画に触れて訳も分からず興奮して、やっぱエンゲキってこんな感じじゃないとダメなのかも、と感じたこともあったものだよ。
この横内もアングラは面白いと思ったんだ。
ここは是非、押さえておいて欲しい。

ただ、俺には無理だと思っただけだ。
だって、頭とか眉毛とか、全身の体毛全部剃って白塗りしたり、オッパイ出したり、生チンポ出したり、親類縁者に何と言えば良いのだ。
アングラの王様・テラヤマは、家出を推奨していたけれど。

剃髪と、家族との絶縁。アングラをやるには、仏門における出家の如き覚悟が必要だった。

話は大きく飛ぶが、ラスベガスでアートサーカスの先駆的傑作『O』を見た時、湖を静かにわたっていく騎馬隊の圧倒的に美しい風景に、私は泣いたんだけど、雛人形が川を流れてゆく、寺山の映画のワンシーンを思い出していた。シルク・ド・ソレイユは、テラヤマの影響を受けていると今も勝手に思っている。
アングラは、凄いモノだよ。

ただし38年前、早稲田界隈の、もう少し身近な先達たちの学生アングラ芝居というものは、熱く語られる理屈ほどには面白いと思うものがなかった。何であれ、一流、二流はあるということだろう。だいたいそういう人たちは、先行するアングラ演劇人のエピゴーネン(真似っこ)だった。その時はそんなふうに見破ることは出来なかったけど、未熟な頭でっかちであり、形骸化していたと思う。
こんなの無理だ、出来ないと思うとともに、やりたいくないぜ、とはっきり思った。

ちょうどその頃、時代が変わった。
鈴木忠志天皇(※早稲田ではマジにそう呼ばれてた)以来のアングラメッカだった早稲田劇研に、鴻上尚史率いる第三舞台が誕生して、劇中、RCサクセションで踊ってみせた。
アングラの菩薩=修行者たちは、猛反発したものよ。こんな軽薄なことは認めないと、鈴木メソッド以来、劇中に流れる音楽は、演歌と決まっていたのだ。(※半分冗談だけど、半分マジです)鈴木忠志は発声を演歌の朗誦で訓練してたからな。
だが、時を同じくして、東大では野田秀樹が、夢の遊眠社で演劇界に新風を巻き起こしていた。
演劇はスポーツだ!と軽やかに言って。
ストーリーは複雑で一筋縄にはいかないけど、明るくポップで笑いに満ちていた。
早稲田アングラ界隈では野田についてもザワついたよ。
しかし鴻上ほどには激しく非難しなかった。
それは相手が東大だったからだと思う。しょせん偏差値頼りに生きて来た、受験坊やたちのアングラごっこの、それが限界だったと私は思っている。
ともあれ、それらに影響された新しいグループがどんどん続いて、あれよあれよと時代を席巻して、小劇場の一大ブームが巻き起こったのだから、私たちが旗揚げした1980年頃は演劇の一代転換期だった。(※私は、つかこうへいのエピゴーネンから)

この突然の小劇場ブームにおいて小難しい理屈は、どんどん消えて行った。
間違ってはいけないのは、理屈が消えたんじゃないということ。むしろ、哲学的や新思想などがブームになったものよ。
難解な本が、おしゃれに装丁されて、本屋の店頭に並べられていたものだ。
マジで、哲学書のジャケ買いが起きていた。

そこでは今までの考えに対して、次々と新しい考え、世界の捉え方が紹介され、それはポスト・アングラのポップな小劇場感覚を支えてゆく方向になっていった。
ニューアカデミズムなんて言ってな。
浅田彰の『逃走論』とかね。「闘争」をしないで、軽やかに「逃走」するんだ。こんなことを言うとお気楽でバカなことが書いてあるのかと思うととんでもない。記号論とかフランス現代思想とかを理解していないと、その境地には至れないと言う高尚な哲学書だ。
とりあえず、買って読んだけど、私しゃ何のことかさっぱり分かんなかったよ。
ただ、時代が新しい方に転換しているという感じはした。
眉間にしわ寄せて、煙草の煙で霞むジャズ喫茶の片隅で語るのではなく
軽やかに知と戯れる感覚。
野田さんの「演劇はスポーツだ!」に近い感覚がそこにはあった。

古い考え方に行き詰まりが見えていた。

古い考えとは
例えば、私が初めてまとまったお金になる劇作の仕事をしたのが、1988年、当時デパート業を大きく進展させて、文化を売ると言い放って、文化戦略を推進していた西武グループが建てた、セゾン劇場(800席)での公演だ。
実話ですが、
「お前、金に魂を売るのか?」と何人かの演劇人に言われたものよ。
その後、まだ6人だった頃のSMAPの演劇公演の台本『ドラゴンクエスト』というものもやるんだけど、その時は、
「君はもう演劇人じゃない」とも言われたものよ。
評論家方面にまだ生息していた、アングラ菩薩の人たちからだけどな。

後に、そのSMAPの草薙君が演劇の賞とか貰った時、俺は、こうして歴史は刻まれてゆくのだとしみじみ思ったよ。どんな気持ちで、草薙君のこと見てるんだろう、あの人たちは。(※そういう人たちは、ほぼ、どこかに行ってしまったんだ。それとも未だ、どこかに修行の森は現存して、そこで何十年にもわたる瞑想をしていたりするのだろうか)

今の人たちにこんなこと言っても、何のことや分からんだろう。メジャーな仕事を得て、それで生きて行こうとする、それが何で演劇への背徳と言われてしまうのだ?

つまり演劇は仕事じゃないという常識が、一部にまだあったんだな。
では仕事ではなく何なのか?

修行である。

終わることのない修行。剃髪し、家族も捨て、商業行為にも一切加わらない。金というものに触れることを不浄と思う心で生きて、すべてを捧げ演劇を考え続けるのである。
わが友・劇作家の鈴木聡氏がよく語る早稲田の某アングラ劇団は、暗闇でろうそくに向かって声を出す発声練習だけを3年続けて、ついに公演を打たなかったという。

我ら未だ、演劇公演に足る声を得ず、といって。

まさに初期インド仏教における、釈迦の覚醒を追体験しようと苦行に勤める、部派の修行僧たちの真摯な生き様である。
で、何に向かうんだ。

たぶん、真理だろう。

一方、私は、良く分からない理屈はもう良いよ、と思ったんだな。そもそもうんざりしていたところに、それがなくてもぜんぜん困らない時代になったのが大きかった。
私は解放された。
別に演劇人じゃなくてもいいし、大ブレイク直前の木村君たちと三宿辺りでゴルゴンゾーラのピザとか食べるの、心から楽しかったしな。ラ・ボエームの流行り始めだな。

真理なんか、つくづく、どうでも良い、と思ったよ。

いろんな人に会えば会うほど、演劇にスタンダードも正解もないということも思い知った。
だってさ、かの浅利慶太先生に演技を習った俳優がそれを実践すると、かの蜷川幸雄には、クソ死ね!と罵倒されるわけだよ。
蜷川に影響された者が新劇の舞台に立ってニナガワ的に暴れると、舞台の常識も知らないのかと演劇界のレジェンド的なベテラン俳優に注意される。
真面目に考えれば考えるほど、訳が分からなくなり、混乱しかしなかったよ。

ちょうど時代も、理屈抜きでOKの時代になった。
能書き垂れてる暇があったら、面白いもん創れや。お客さん、集めろや!
ま、その後、私が生きるフィールドも、ますます大衆劇方面になって、理屈抜きで闘う場所になっていったからな。

忙しいアイドル達と芝居をするのに、イチイチ演劇論語って、演劇観のすり合わせなんかやれねえよ。
劇団の若い弟子たちだって、理屈の前に、やってみろ、で済むことも多い。
体験上、やっぱり演劇と言うものは、頭よりカラダで覚えたとこの方が身に付くものだしな。

だから扉座研究所を23年やってきて、私が理屈を語ったなんて、実はほんの数えるぐらいしかなかったことだ。

ただね。

私は明らかに否定して、背を向けたけれど、あの頃のアングラの森の修行者たちの姿は、決して醜くも、愚かでもなかったと思うんだな。
理論という言葉を信じて、我が身をそこに追い込んで、真摯に、演劇の真理に向かおうとしていった、その姿勢はむしろ美しいモノだったと、懐かしくも、愛おしくも感じるのだ。
あの頃の面倒くさかった大先輩たちも、今の私から見たら、みんなもう、ただただ愛おしき若者たちだ。

演劇とは何なのか。

それを追求する、純粋な心は大事だよ。
そこに生きようと思うなら、生涯、捨ててはいけない姿勢だと思う。

どう売れるか、食っていくか、そのテーマももちろん大事だけど。
この仕事は、日々の暮らしの消耗品を製造する工場の作業を受け持つことではないわけで、目に見えない価値を、人に認めて貰うという極めて難しい行いなんだ。これを生業とするためには、自分の為すべきことに対して、少しでも自覚的であるべきだし、そこに学びと精進が続けられるべきだ。

私だって理屈が要らないと思った訳ではないのだよ。
今まで整理してこなかっただけだ。
真理には程遠いけど、私が来た道も、これはこれで一つの修行だったからね。
破戒と欲望に塗れた、獣道での修行ではあったけど。

なので今、ちょっとだけ理屈っぽく、若者たちに話し始めている。

特に今さ。
ずっと理屈抜きで、あんまり考えて来なかった我々も、考えるべき時だと思うんだ。

この先当分、演劇は稽古することも、客席に座って観ることも命がけだろう。

新型ウイルスに対する強力な抗体を獲得した人か、芝居を見てウイルスに感染するならそれで良いです、みたいな命知らずしか、劇場に来れないかもしれないわけだ。

そこではもう、お気楽なエンタテイメントです、なんて言ってられないだろう。

やる側だって、ソーシャルディスタンスで座る、スカスカの客席を前にして、当然ギャラなども目減りを覚悟して、感染の危険を冒しつつ、唾飛ばして密着して演技するわけだよ。

ドイツの文化相が、芸術は、私たちの命の維持装置だ、だから守らなきゃいけないという涙が出るような素晴らしいことを言ってくれて、けれど、我が国の政治家たちは、その言葉がまったく理解できていなくて、我々は深く絶望している。
だがね、その言葉は、決して我が国の為政者たちの暗愚を明らかにしただけではなくて、それを担う我々にもしかと突き付けられた剣であると思うんだよな。

すなわち、

私たちが今、取り組んでいることは、人々の生命維持装置となり得ているか?

コロナ後に、新しい生活様式を求めると、お上は言う。
余計なお世話だと思うがね、

否応なくここでまた一つ、我々の演劇界は転換期を迎えるだろう。
原点に立ち返って、真摯に演劇と向き合う。
さもなくば、コロナの後に、芝居を創り、上演する理由をみつけられないじゃないか。

そう思って私は今『エンゲキ虎の穴』に取り組んでいる。

☆彡 今後、穴は拡大し、さまざまな活動を展開してゆく予定です。
皆様のご贔屓、お引き立てのほど、よろしくお願い申し上げます。


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