エンゲキ教の話 我が信仰告白

 オンラインの扉座研究所『エンゲキ虎の穴』を始めてひと月。
昨夜は、特別公開講座として、六角精児にインタビューした。

付き合いも40年以上になる劇団員だ。平時であれば、そんなこと考えもしないだろう。お互いに、突然、いろんな仕事が停滞して、スケジュールに空白が出来たから、思い付いて、すぐに実現出来たことであった。
2度とこんな暇は生まれなくて良いと思いつつ、一度きりのつもりでやった。

その模様は今後アーカイブ化して、虎の穴の虎の巻にしてゆく予定。

ところで昨夜、ちょっと話して、結局、半端になっちゃったなと思ったことがあるので、自分で忘れないためにも書き残しておく。

コロナの後に在るべきこと。

シェイクスピアの時代、1600年辺りのロンドンでは、ペストが大流行して甚大な被害が出てていたという。
今と同じように、演劇人たちは、苦しめられていた。
シェイクスピア劇のストーリー、セリフの中にも、恐ろしい伝染病云々の描写は見られる。ただ、もろにその患者などが登場している印象はない。それは町がペストで苦しむ時に、せっかく劇場に来てくれた人たちに、わざわざペストの恐怖を思い出させる必要もなかろうという、芝居者の勘が働いたのだろうと言われており、そりゃそうだと、同じ芝居者として納得できる。
我々だって、コロナを冗談に出来るのは、当分先だ。
命がけで劇場に来てくれたお客さんたちを、不安にさせたくないと考えるよね。

当時、ロンドンで、一日の死者が三十人を超えたら、劇場は閉じよ、というお触れが出たそうな。
演劇人たちは、頼むから、三十人を超えないでおくれと神に祈り。
超えた時には、何とか閉鎖を回避する抜け道はないかと、悪魔と結託して策を弄したそうな。

その時も、今と同じく死活問題だったんだ。

伝染病は、常に人類の歴史とともにあった。
今、我々はシェイクスピアと同じ思いを共有して、劇場をいかにして開けるか、公演をどう維持するか、命がけで芝居に向かい合っている。

ロンドンに限らず、わが国でも、伝染病はいろんな影響を残している。

京都の夏の風物詩、祇園祭は、平安時代に流行った伝染病による被害者たちの供養と、神仏にご加護を祈る神事である。
その祭が博多に伝えられ、時代を経て、今はF1のようなタイムを競い合う、山車の競争となって、楽しい限り、そしてこの祭りが終わると、梅雨が明けて夏が来るという、博多の生活の一部であるが、元は伝染病由来の祈りの祭りだ。

隅田川の花火だって、江戸時代、飢饉と疫病で苦しんだ後に、被害者たちの供養と、復興と、神仏の加護を祈って始められたと聞く。

今のコロナも未だ得体の知れない、新しい病である。
科学の未発達な時代に於いては、尚更、それは目に見えない、触れることも出来ない、人知の及ばぬ、神仏の領域の問題であったのだ。
そしてその祈りは文化となり、今の世に伝わっている。

大いなる自然の前に
人間は小さく、無力である。
そしてこの世を生きて行くことは、いつも苦行である。

コロナのひと段落、ようやくかすかな希望の光が、出口の方に見え始めている。
さて、経済だと人々は言う。
我々も、ここから何とか建て直さなくてはと思う。
まずは経済を。

しかし、これらの歴史を思う時、我々がこういう人智を超えた自然の猛威に対した時、忘れてはならないのは、
人間の無力であり、この世は無常にして、理不尽な苦しみの場だということだ。

科学はそれを超えられると思う決意はあっても良いが、人の力に限界はある。
それを忘れて、調子に乗った時、人間はまた必ず、手痛い目に遭う。
いつの世も傲慢に寄って、人は滅びる。
もっとも人間がすべて悪いわけじゃない。科学は進んでくれなきゃ困る。けれどそれほど無力だと言うことを、忘れるな、謙虚であれと言う戒めだ。
全国で今年の祭はさまざま中止になっている。
しかし、祇園祭ではイベント的な行事は取りやめるが、密かに神事だけは執り行うと言う。それはいつも以上に、深い祈りとなることであろう。祭の原点に立ち返り、平安の人々、その後にも連綿と続いて来た、この国に生きて、理不尽な苦しみの前に、神仏に救済を願い続けた人々たちと、思いを重ねる祈りとなる。

目に見えぬ、疫病。
その収束の後には、経済に先立つべきものがあると思う。
それは祈りだ。

この世が、苦しみに満ちた場所であり、その苦しみの中でいかに人間が無力であるかを思い知った時、人間が為すべきことは祈りだ。
人類はずっとそうやって来た、と歴史は語っている。

ただ、問題は何に祈るか、だ。
信仰する宗教があれば、問題はない。キリスト教圏の人々、イスラムの人々、私の好きなバリ島の人々はヒンズゥの神々に、彼らはすでに毎日、祈りの日々を送っていることだろう。
我が国だって、信仰に生きている人たちは、それぞれの神仏を祈っている。

とはいえ、そんな信仰を持つ人は、我が国では少数派である。

国民的な宗教を持たない、我々のココが弱点だと私は思う。
疫病が流行る、まずは命が大事!
そこまでのヒューマニズムは確かにある。その為に自らの仕事も止めて犠牲を払う道徳心も持ち合わせている。政府からの要請と言うお願いを黙って聞いて、自分は損して、痛み苦しむ。ろくな信仰もないのに、こんなこと、どこの国で出来るかね。
神の罰を恐れてのことじゃないのだよ。
ただ相互扶助のためである。
充分に精神的な人々だ。

ただ、祈る癖がないから、ことが一段落すると、誰に感謝するでも、この先の安全を祈るでもなく、さあ経済だと走り出す。
決して、金を拝んでいるばかりの人間たちではないのに、どうしてもそう見えてしまう。

ここに、祈りと言うワンクッションを入れた方が良いんじゃないか。

そうすれば、この間に失われた富ばかりが気になって、ただただ苦しくなるばかりでなく、今、生きていることの喜びを噛みしめ、運悪く我らの代わりに犠牲となった人たちを悼み、その人たちの分まで頑張ろうと言う、もう一段、程度の高い活動が始められるんじゃないのか。何より、我々の心が安らぐだろう。金勘定の前に、そういう精神の安らぎを得る時間があれば。
ああ、よかった、ありがとう、みたいな心で、この先に向かっていけないか。

私はここら辺に我が国が、文化芸術を軽く見ているように見える要因もあるのだと睨んでいるのだがね。
欧米に引けを取らない、文化と芸術を生み出し、育む力を持っているのに、物質よりも精神というものの優位を認める、信仰心が社会の中で顕在化していないために、その力がきちんと表現させてゆかない。

だから、と言って、今、突然、何かの宗教に入信してもねえ。
そもそも、人が神仏と出会い、帰依するのは、自然な導きがあるものだろう。
だからこそ尊いと私は思っている。
こんなこと書くと、いろんなお誘いを受けそうだけど、大丈夫です。
その時が来るのなら、それは自然にやって来ると思っているので、どうかそっとしておいて。

私は、ずっと無信心できた。
今年の2月亡くなった父が、生まれ育った秋田の家が熱心な日蓮宗の家だったということで、父が墓を建てた墓の有る鶴川の日蓮宗のお寺のお上人様と、父のなくなる前後、ご縁が出来たが、だからと言って、信心にはほど遠い。

 ただ、
 やっぱり演劇人だから。
しかもその作風が、社会科学ではなく、ぐっと人文科学系で、その中でも、リアリズムではなく、神話、おとぎ話、ファンタジー取り入れ方針の芝居書きだから
 物質よりも精神が大事で。
 祈りが欲しい人間である。

 祈りは欲しいが、神様はいない。こりゃ、どういうことだね。
 そこで、もう一度、我が身を顧みて思い至ったのが、この結論なのである。

 私はエンゲキ教の信徒である。
 
 その神の名は知らない。女神とも、大王とも、分からない。開祖もたぶんいない。
 何だろうか、森に生まれた者が、その森で頼りにする一本の大きな木を拝むように、エンゲキを信仰し始めた。
 実際、私が今まで人生で得た来た者は、すべて演劇が与えてくれているものだ。

 この世は辛い、生きて行くのは苦行だと、こんな私も折々に思い知って来た。時には、演劇そのものに、苦しめられても来た。
 それでも、崩れそうな精神を救ってくれたのは演劇だったし、明日への希望を授けてくれたのも演劇だった。

 思うに、それぞれの人生に、そういう信仰があるのではないだろうか。
 キリストとか、ブッダとか、そういうビッグネームではないけれど、
 それぞれの人たちに、人生の依り代となっている、守護の仏、導きの神様がいると思う。
 清志郎とか、レノンもそうだな。ある人にとっては、サッカーの神様とか、手仕事の神様とか、かまどの神様なんてのもきっといるな……

 コロナの後、もう一度、いろんな扉を開ける時に、そういう神たちに、感謝とか、これからの加護を祈りたくなる、それが安心への道なのじゃないか。
 その時間が、少し挟まるだけで、きっと経済活動に向かう迫力と覚悟が変わって来る。
 人知の及ばぬ災難を経験したからこそ、精神を優位に置くのだ。

 失われた富は、しょせん物質だ。
 大事な精神は守られた。それをまず喜ぶ。

 昨夜は、六角の信心について、
 酒の神様、バクチの神様、と冗談半分に言ったけど、

 六角のあの、得体の知れない人を惹きつける力は、明らかに酒やバクチの神様に、可愛がられ愛された賜物だと思わずにいられないのである。
 生半可な神様じゃないから、その可愛がりは、命のやり取りと隣り合わせだろうがな。
 恐ろしいバクチの神様に鍛えられたから、あんなにしぶとく生きて行けるのだろう。
 表向きには深く言えないけど、そりゃ借金は辛かった。
 気の弱い人なら、とっくに自殺してますよ、六角のように生きろ、なんて言われても。

 決して、ふざけて言っているのではないし、他の信心を謗るつもりもない。
 信じる気持ちは尊い。
 私のエンゲキ教だって、根底には、キリストやブッダの思想がある。
 今のところ、最も私にしっくり来るのが、エンゲキの中にある、さまざまな叡智や、問いかけだということだ。

 とまあ、私が昨夜、信仰を告白したエンゲキ教については、こんなことを考えている。
 そんなこと、あの時間でとても語り尽くせなかった。

 しかし、六角も言ってたな。

 金じゃねえんだよ、って。

 やっぱり、六角も信仰の人だよな。
 バクチって、儲ける欲望でやると思うのは間違いで、バクチの神との対話なのだという証である。

 六角との対話は、好評に付き、水曜日の夜まで無料で公開し続けます。
 まだ試行錯誤まなかで、少し音声が聞き取りにくいみたいだけど、
 配信が終わった後、ふたりで、今の面白かったよなと、言い合ったぐらいの傑作です。
 よろしければ是非。扉座ホームページから視聴できます。



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